津次郎

映画の感想+ブログ

方言カーストを登る 舞妓はレディ (2014年製作の映画)

4.2
関西人がしばしば東京圏の俳優の関西弁について苦言を呈しているのを見かける。
わたしの地元にも、いちおう方言がある。どこにだって方言はある。メジャーな方言でなければ、人様に真似されることはないし、ドラマにも使われない。

知ってのとおり、日本には地域に暗黙のカーストがある。拡大すると翔んで埼玉のようなコメディになる階級だが、その手の話は昔から腐るほどあった。耳にタコができるほど聞いた。ゆえに地元の「階級」を誰もが知っている。知らない人間はいない。出自の方言をでたらめに扱う人がいたとしても腹立たしくはならないのは「階級」を知っているからだ。出身地を馬鹿にされたとて、つゆほども苦にならない。

マツコは横浜市民が嫌いで、かれらの選民意識──特待とスノビズムに嫌味を言うが、大なり小なり、選民意識というものは、どこにでもある。
京都中枢には、よそ者を人とも思わない、旧弊な人たちがいると聞くし、もっと身近で、地元の自治体にも内輪の結束がある。
2018年末、港区が南青山に児相の建設を計画し、住民の猛反発に遭ったというニュースがあった。その説明会での南青山住人の発言たるや、貧乏人が来るんじゃねえ──という特権階級意識がダダ漏れだった。

他愛もない自尊心、カーストを形成する、翔んで埼玉のような意識の根幹は、レイシズムに他ならない。
単なる差別なのである。
上位都市部の優越がまかりとおり、かつ地方人が進んで自虐に甘んじることで、日本じゅうが麻痺して、笑えない話を笑っているのである。
地域格差は、日本という巨大村で、村人たちが、どんぐりの背比べをしている──と見るべきだろう。

したがって、映画/ドラマ等の演技に、関西弁が下手という半畳を、即座に入れてくる関西人の気持ちは、わたしにはさっぱり解らない。そんな関西人でも、関西弁を使う白人には阿諛してみる。けっきょく選民意識ではなかろうか。

長谷川博己は文学座の出身で、もともと、ハッキリとした演劇風の滑舌に特徴がある。自然な演技というよりは、明確な演技をする人で、言語学者/京野役がしっくりとおさまった。妙に作りものっぽい方言でさえ、自然さよりも正確性を期した言語学者の役どころがdefenseになっていた。
すなわち、彼の演技スタイルと役が、うるさい関西人の追及を逸らしていた。──と思えた。

万寿楽に初めてやってきた春子の一声に、瞑目して「鹿児島?」と言い、PCMレコーダーをガシっとつかんで差し向ける。が、二声に津軽弁を聞いてさらに驚く。
「たのんもんでぇ、あたいも舞妓になるごたぁ、ならねばなんねのさ」
平伏してそう言った春子の言葉遣いに「鹿児島弁と津軽弁のバイリンガル、初めて聞きました」と感嘆する。個人的にはいちばん楽しいシーンだった。
春子の鹿児島弁や津軽弁が、鹿児島県民、青森県民からの品評に遭っただろうか。──そんなことは有り得ない。鹿児島も青森もカーストの上位都市ではないからだ。

愚鈍な田舎者の上白石萌音/春子が、徐々にしゃんとした舞妓になってゆく過程が、よくわかる映画だった。その演技力もさることながら、顔がいい。庶民的で、賢さがみえる。明るく濃く華やかだが、女優風の野心/胸算用が見えない。好感度抜群だが、この後の彼女のキャリアにみる日本の演出家たちの「素材の味を引き出さない度」は、想像を絶するものがあった。

舞妓になるために訛りを矯正する人が大勢いるわけではないし、ほとんどの庶民にとって舞妓もその遊びも生涯、相まみえることのない世界だと思う。お座敷で遊んでみたいかと聞かれたら、むしろ遠慮したい。
──とんでもないわたしらたんなる山猿でございますよ、ジローラモがやってる遊びなんて、とうていむりですわ──

地域カーストが浸透し、田舎者の自覚をもった田舎者が増えたことで、カーストの上位地域の人々は、馬鹿にできる田舎者を失い、優越を発揮できる機会を失ってしまった。
結局、上方の人たちが弄れるのは、東京人の関西弁くらいしかない──わけである。

つまり、田舎者にとって、ぜんぜん知らない世界であることが、この映画の大きな魅力を担っていた。
日本の「一人ハリウッド」周防正行監督のプロダクト格の違いをみせつけた傑作だったと思う。