津次郎

映画の感想+ブログ

不幸・クズ・底辺へ走る日本映画 MOTHER マザー (2020年製作の映画)

MOTHER マザー

1.0
日本映画で、不幸やクズが描かれるのは、話に事件を設置することのほかに、作った人が鬼才の称号をもらえるから──というのがある。

ヒロイックなヒーローを描いても鬼才の称号はもらえないが、不幸やクズをぎらぎらした筆致でえがくと、鬼才としてもてはやされるため、やがて、みんなそればかり描くようになる。──げんに、そうなっている。

また、底辺を描くと、鬼才のほかに、社会派の称号ももらえる。

鬼才をもらって社会派ももらえると、監督業があんていするため、だれもが不幸・クズ・底辺へはしる。わけである。

さらに、そういうものを描くと、なんか、いろいろと世の中のことを考えてますよって感じが、そのクリエイターにくっつくので、ますますそっちへはしる。

だが、ときには誰か勇気のあるインベスターが、鬼才や社会派をもらった監督に「いつも自堕落な人間を描くのはなぜですか」とか、「もったいぶってますけど、映画へたですよね」とか言ってみたっていいんじゃなかろうか。

この監督にかぎったことではないが、日本の鬼才監督は、監督業に箔付けしたい、ってことの以外に、いろいろかんがえてはいない──はずである。知らないので想像なんだが。いろいろ考えているなら、映画業界が、何十年も無風なわけがない。

まいど、日本映画を見るたびに思うのは、この「しゃかいの闇をえぐりだしてやったぜ」みたいなドヤ顔は、なんなんだろうか。──ということだ。

鬼才の称号に乗っかって、社会を見つめる作家の威光をピカらせるのはけっこうだが、にしても、この猿知恵な映画はなんなのか。いたずらにカウンターカルチャーを気どるスタンスを、こけおどしと言うのである。

そもそも。
個人的に理解している「クリエイター」というものの前提は、人と違う作品を創るひと──である。
ところが日本映画界は全員がおなじ映画をつくっている。
大森立嗣三島有紀子河瀬直美瀬々敬久塩田明彦蜷川実花熊切和嘉高橋伴明荒井晴彦石井岳龍奥田瑛二行定勲石井隆廣木隆一・・・全員が不幸描きクリエイターとして、似たようなディストピアを描いている。わけである。
この奇跡の一貫性はなんなのか。
かれらの映画が、監督のクレジットを入れ替えてあったとして、誰が気づくだろう?

映画はじっさいにおこった事件から翻案されており、いわばニュースストーリーの方法を持っている。

ただし、登場人物に共感できるところはない。であるなら、それは「社会の闇」とは言わない。社会に背をむき、暴言をはき、ひとに乱暴し、金を無心し、こどもに怒鳴り、こどもに殺人をやらせ、そんなのは「闇」ではない。たんなる性格破綻/精神異常/病気である。

このアタマのいかれた人々を見て、周平くんかわいそう──とか感じ取れ、というのだろうか。このらんちき騒ぎに、憐憫しなければ、人でなしになってしまうのだろうか。

映画の登場人物が、どんなに悪辣でも、かまわない。
ただし、その様態がこけおどしの過剰を持っているならば、容認できない。
なぜなら、これはニュースストーリーだからだ。
ホラー映画だったら、それでいい。
しかしリアルに寄せるドラマに過剰を見るならば、それはこけおどすために脚色された人格になる。=映画を見るひとにたいして衝撃を与えるための欺瞞なのだ。
事実そんな人なら、ホラー映画でいい。なぜきちがいを偶像にするんだろうか。

したがって、映画はまるで「これが現代社会の闇です」と言っているかのような、気取りを持っている──にもかかわらず、じっさいには気がくるった人々の素行不良を垂れ流しているにすぎない。
荒れる場面での「ほらほらこどもたち可哀想だろ」ってな描写のエゲツなさ!
こけおどしでなくてなんなんだろうか。

いみじくも主演の長澤まさみがインタビューに応えて言っている。
「演じていて面白いのかどうかも…ちょっとわからないですね」
「こんな人、だって嫌いだもん(笑)。全然好きになれないですよ、秋子なんか。正当化もしたくないし、認めたくないです」

気持ちを理解できない人物像はニュースストーリーにならない。まして出演者がわかんないなら、なおさらだ。
ではいったい、なんのために、これらのニュースストーリーが語られているのか、──その理由=映画の目的は、観衆にたいする威嚇だ。

この映画は、映画という媒体をもちいて「すげえ社会の闇、描いたんだけど、おれってすごくない?」と承認を求めている──に過ぎない。これをこけおどしと言う。

そして、それが日本映画の目的と方法である──と個人的には思っている。
ひとで無しなわたしは、つきあいきれず(なんせ126分もある)、途中からホラースタンスで見た。いけいけ秋子、もっとやれ、──そうやって、くさすぎるエレジー展開をしのいだ。
なんなんだこの田舎映画は。

民児で亜矢(演:夏帆)という人がでてくる。
かのじょは、自分自身も虐待サバイバーという設定。
演技派の夏帆なので、善人ぶりが嫌になるほどうまいが、むろん夏帆に罪はない。
しかし脚本は、周平にたいして「夢ってある」と、たずねさせる。

一間だけの仮部屋で、きのくるった母と、実父でも養父でもない得体のしれない男と、おさない妹と、怒号と暴力と無一文でせいかつしているかれに、夢をたずねる。グローバルTPSの勧誘ですか?

わたしども映画見たことないわけじゃないんですよ。
っていうか、わたしども生きたことないわけじゃないですよ。
と、個人的には言いたくなった。

日本映画界は旬報や権威主義が同調しているだけの永遠の昭和世界であり、その鬼才たちは、なんか言いたいことがある──ってより、たんに「おれさまは映画監督なんだぜ」ってな自己顕示がしたいだけの山師たちだと思う。そのどうしようもない旧弊と鄙感。
実話だろうがなんだろうが、団鬼六の緊縛ものと変わんない。0点。