津次郎

映画の感想+ブログ

Strange Circus 奇妙なサーカス(2005年製作の映画)

奇妙なサーカス Strange Circus [DVD]

1.0
昭和平成の世代で人気女優だった宮崎萬純さんを覚えておられる方も多いと思う。きりりとした宝塚男役のような顔立ちで売れっ子女優だった。その復帰作が奇妙なサーカスだった。復帰するにせよ、なんで園子温で復帰するのだろう──と疑問に思った記憶がある。(復帰後すぐ乳がんが発覚し本格復帰にはならなかった。)

映画はこけおどし。過剰にすると鬼(才)になれちゃう──をしょうめいする日本映画。
不条理や非倫理や、スパゲッティわしづかみで食べれば世界観でると思ってる監督のケッサクです。ぜひごらんください。

ところで今回の告発の発端は硫黄島からの手紙に出演していた俳優松崎悠希氏のツイッター(2022/03)だったようだ。

詳しくは知らないのだが松崎悠希氏はハリウッド俳優であって日本の業界の中にいない。(キャリアのすべてがアメリカ。まったく日本訛りのないりゅうちょうな英語をはなす。)

いないからこそ「日本を代表する映画監督」である園某を告発することができたのだろう。が、その構造をかえりみると愕然とする。

つまり松崎氏ほど日本の芸能界から縁遠い人でなければ園子温を告発することができなかった──わけ。
ようするに同監督が目を光らせている業界内では、そこで働くかぎり、なにをされようと泣き寝入りするしか、なかったということ、ではなかろうか。

監督は告発を受けて、謝罪したものの「記事には事実と異なる点が多い」と主張し「代理人を通じてしかるべき措置をとる」とのこと。
けっきょく日本の公人の往生際パターンを踏襲したわけだが、ふざけんなよこの野郎!監督業休止だろうが。

おまえの映画の作風がこけおどしだからってセクハラで告発されていながら「しかるべき措置」とか逆におどすってどうなってんだよ。

ネットにあがっていたエンタメニュース──、

『(~略)「生理的欲求に忠実な奇才ですが、手法が時代遅れだったと思います。撮影中に女優の乳首に赤ワインをかけて、なめるような巨匠に憧れて監督になったので、排泄(はいせつ)行為や性行為に関して、妙に解放的だったので、目を覆いたくなることも多かったです」とプロダクション幹部は打ち明ける。
「しかしその成功の裏には、多くの女優の涙が流れていたといえるでしょう。売れる前から女好きでした。売れる監督になったことで、権力に酔いしれた王様になってしまったんでしょうね。周囲が調子にのせてしまったことも否めません。映画のヒットメーカーだったプロデューサーやグラビア雑誌全盛期の接待王といった昭和の悪しき風習の継承者たちが『自殺クラブ』あたりから園監督を担ぎ出して、変なスイッチを入れてしまったように思います」と別の芸能プロダクションのマネジャーも語る。(後略)』
(夕刊フジの記事より)

アメリカのMeTooから数年遅れだがこれを期に日本でも告発が常態化してほしいと思っている。

(個人的には真理突いていると思っているものの)憶測/偏見にすぎないが──、
ハリウッドに集う映画人が映画にたずさわる動機は「映画がつくりたい」だった。
反して、日本の映画人──重鎮/天才/鬼才と呼称されている人たちが映画にたずさわった動機は「女の裸が見たい」だった。あるいは「女優とねんごろになれる」だったかもしれない。
現実に日本の多数の映画監督がポルノスタートだった。

「映画をつくりたい」の野心がポルノと表裏になっているのが日本映画界。とうぜん余禄にあずかろうとして飛び込んだ人は少なくなかっただろう。そんな業界に倫理プロトコルをもとめるのはむり。
よってキーボしながら撮影に挑む──日本の映画人がわいせつで芋づる式に失脚していく。のは合理。

いちぶの英才あるいはテレビ界出身監督の映画など、まっとうな映画監督をのぞいて、日本は映画をつくらなくていい。と個人的には思っている。
VODが充実した今ではマイナーな国内映画が見られるのだが、ほんと○○みたいな日本映画つくんなくていい。まったくひつようがない。

日本映画がダメなのは→100%技術的な芸能=映画を、感性とか個性とか根性とかに委ねているから。感性個性根性、いらない。技術を習得して下さい──という話。
「がんばってつくる」──そこに涙と正義があると思っている人たちのじゃれ合い。
日本映画も日本映画界も、日本版MeTooを期に滅んだほうがいい。と思います。