津次郎

映画の感想+ブログ

鬼才感 ニューオーダー (2020年製作の映画)

ニューオーダー(字幕版)

3.0
日本映画界では鬼才や天才は、監督の技量のなさを弁解する言葉になっている。

とりわけマーケティングにおいてはぜんぜんダメな映画さえも鬼才(or天才)などと喧伝される。

鬼才や天才と定義しておけば、観衆にウケなくても、興行にしっぱいしても、おともだちの旬報にしか褒められなくても、また、たとえつたないだけでも「鬼才(or天才)なので解る人にしか解らない」と弁解することができるからだ。

で、いつのまにか日本映画界は“鬼才”と“天才”だらけになった。

したがって今や鬼才や天才が本来持っている意味にズレが生じているが、鬼才とはがんらい一風変わったorエキセントリックな作風に与えられる冠だった。

本作のミシェルフランコ監督は一応本来的な意味での鬼才と言えるが、かえりみるとかつては鬼才と呼べる映画監督が多かった。ズラウスキー、ハネケ、マカヴェイエフ、オルミ、ベーラ、マリック、チミノ、ギリアム、ラッセル、リンチ、ホドロフスキー、トリアー・・・。いや、それどころか旧時代の代表的な映画監督はみんな鬼才だった。ベルイマン、フェリーニ、キューブリック、ベルトルッチ、タルコフスキー、ゴダール、パゾリーニ、アンゲロプロス、ヴィスコンティ、アントニオーニ、レネ、フランケンハイマー、ヒューストン、小津安二郎、大島渚・・・。

思えば昔は変な映画がたくさんあり、その“変”が、けっして伊達ではなかった。
鬼才で辞書をひくと『人間とは思われないほどのすぐれた才能。また、その持主。』と出てくる。じっさいに昔はその意味で使われていた。
(鬼才を無能な監督の代名詞にしたのは日本映画界とマスコミです。)

だんだん映画のフォーマットが普遍性を帯び、妙な感覚の作品が淘汰され、ウェスアンダーソンみたいな独自の世界を持っている映画は今やほんとに少数派になった。
(ちなみに日本映画界では技量のつたなさを“妙な感覚”にトランスフォームして“鬼才”と呼んでいます。)

ミシェルフランコは深田晃司やBrady Corbetに似ている。とくに深田晃司監督によく似ている。作風を形容するなら“神経逆撫で系”。トリアーの後継者──という感じがする。

とはいえミシェルフランコの“鬼才”にも疑わしさ──はある。
たとえば前述した偉大な先達たちの“鬼才”は力量が解りすぎるほどわかる。しかしミシェルフランコや深田晃司の“鬼才”はなんか怪しい、危なっかしい。偶発か、あるいはポーズ(建前)のように見えてしまうことがあるし、盛ってる感(過剰さ)もある。

──

すごく衝撃的な映画。経済困窮者たちが金持ちを襲い、それを鎮圧する目的で新体制が布かれる。が、じつはぜんぶが仕組まれたストーリーをたどるクーデターになっている。人もばんばんころされ扇情的だった。

VOD(U-NEXT)の概説には──

『社会派監督、ミシェル・フランコが、経済格差がもたらす社会秩序の崩壊を圧倒的なリアリティで描いた衝撃作。秩序を塗り替えるかのように全てを染める緑色の塗料が印象的。』

──とあったが、まずミシェルフランコ監督は(まったく)社会派ではないし、リアルと言うより過剰な印象。

過剰さはときとして鬼才とイコールになる。
で、過剰と鬼才がイコールになっている監督はうさんくさい。
わかりやすい例をあげると(日本を代表する映画監督の)園子温。あるいは(日本を代表する映画監督の)蜷川実花。
つまり「過激な描写をすることで鬼才感を出してくる監督」はうさんくさい──わけである。

前述した偉大な先達は真の意味で鬼才といえるけれど、すこしも過剰(or過激)な作風ではなかった。そもそも過激と鬼才はイコールで結ばれることのないものだ。それが現代の“鬼才”にたいする懐疑心につながってくる。ミシェルフランコ監督は園子温よりははるかに本質的な“鬼才”だが、(本作ニューオーダーの)鮮やかな緑色のビジュアルとテロを合わせてアート値とメッセージ性を併せ持たせました感は(わたしには)うさんくさすぎた。

とはいえミシェルフランコ監督にはなんかありそうな気配がある。父の秘密(2012)も母という名の女(2017)もカンヌで「ある視点」部門賞をとっているが、たしかになんか「ある視点」がありそうな映画を撮る人だ。たしかに一定の見ごたえはある。

(ある種の滑稽さを帯びてしまった深田晃司のよこがおにも一定の見ごたえがあったがほんとにそこへ落とそうとしたのか──という疑問は残った。なんていうか、過剰さと「奇をてらっている気配」がミシェルフランコと深田晃司はすごく似ている。)