津次郎

映画の感想+ブログ

むかつく女 本気のしるし (2019年製作のドラマ)

本気のしるし DVD-BOX(4枚組)

2.5
このドラマの不条理は、深田監督によるものではなく、星里もちる氏のまんがに依存しているところが大きい。のでは?
監督は自分の作風に近似した原作に絶妙なほどうまく乗っかっている。

個人的な見識だが、淵に立つは、わかったようなわかんないような話だった。
よこがおにいたってはコメディだった。(よこがおのレビューですよろしければごらんください。)

ところが深田晃司監督は世間一般に定評があるので、本作に見られる錯綜する人間関係などの描写が、あたかも深田監督の生み出した世界観に見え、それによって世評では星里もちる氏よりも深田晃司監督がクローズアップされている。(映像作品ゆえに、監督が序列のトップにくるのはとうぜん──とはいえ。)

もちろん題材を探しあてるのも監督のセンスではあるし、演出も落ち着いているので、映像化の功績はあるが「むしろ星里もちる氏の原作のおかげでしょ」と言いたかった。笑
(劇場版がオフィシャルセレクションになって、カンヌからべた褒めされているわけだし。)

理不尽・不条理の作家ってのは疑わしい。
人間のギラギラした闇とその不幸を描く作家はほんとにそれを命題だと思っているのだろうか?
たとえば淵に立つやよこがおで描かれた話は結局「それがどうした?」ってことにならないだろうか?

シリアスなテーゼを打ち出している作家はなぜか箔がつく。
コメディ作家よりも、ドラマ作家のほうが社会派の感じがする。

世の中にはこの位相が顕在する。
たとえば佐藤二朗は演技賞の対象にならない。
なぜですか?
世間というところはシリアスな様態を持っていないと正規承認されないからだ。
しかしそんなの変だと思いませんか?

なにかいろいろ考えている気配のある理不尽・不条理の作家は、じっさいにはランダムに変な人物を描いているだけ──だとしても、不特定多数の観衆から崇敬されてしまう、という位相を持っている。のである。

うまく言い得ているか解らないが、シリアス=重大・深刻を描くと、なんにも考えていなくても、高徳に見えてしまう──のです。

火口のふたりなんかおまんこしてるだけだぜ。あるいは、たとえば文豪みたいな名前をした女性監督がいるが、そのひとはしあわせのパンとかぶどうのなみだとか、ほんとにしょうもない劣化版荻上チルドレンとしてキャリアスタートしたのに、突如シリアス路線に鞍替えした。そのとんでもなくいい加減なスタンス!ほんと反吐が出るぜ。

理不尽や不条理の作家で、その重大・深刻を、たんに自分の威光にトランスフォームしているだけの作家は、底が見えるし、お里がわかります──という話。

だから本気のしるしを見て「こんなに巧い作家ではない」と思ったのは星里もちる氏の原作の完成度が高いからにちがいない。と思った次第。

内容については、個人的な解釈だが、すべてが意識的な悪意であるにもかかわらず、あたかも無自覚・無意識であるかのようなメンヘラ女が描かれていた──と思う。

いっけん無自覚・無意識に見えても、自分のために尽力してくれた他人をおとしいれたいという欲求が根底にある。それがメンヘラというものではなかろうか。

周りを不幸にしてしまう宿命を負った(いわゆる可哀想な)女が描かれているのではなくサイコパスが描かれている──と個人的には解釈した。
うまい女優さんで、その小面憎い感じが、よくあらわれていた。

ところでメンヘラを体現しているのは、おかしな自論だが、浮世が着ているあの服。ノースリーブでマタニティみたいなひらひらの服。あれはメンヘラ女が男性を収攬するときに使う服。本作は浮世による辻くんの一本釣り篇といったところ。

個人的な意見だが、嫌悪感を「面白い」とは言わない。きょうび嫌悪感で誘う作風というものがよくあるが、それをあえて「面白い」と強がってみる必要はない。まったく余計なお世話だが、そういうときは「興味深い」が適宜かと思う。