津次郎

映画の感想+ブログ

成長する少年と家族の絆 ワイルドライフ (2018年製作の映画)

ワイルドライフ(字幕版)

4.0
リトルミスサンシャインのポールダノをおぼえている。プリズナーズもオクジャもスイスアーミーもけっこう鮮明におぼえている。
時間が短くても印象的な俳優だと思う。

アメリカだと、印象的な俳優が、監督もこなしてしまったりして、圧倒される。
対抗しなきゃならないわけじゃないが、俳優が監督に転身?日本じゃきいたことがない。人はそうそう多芸じゃない。

もっともハリウッドには(いまおもいつくかぎりだが)ウォーレンベイティ、ポールニューマン、レッドフォード、ショーンペン、ケビンコスナー、イーストウッド、ベンアフレック・・・俳優が、すぐれた映画監督になっている例は、いっぱいある。

近年の俳優→監督で感心したのはジョエルエドガートン監督のBoy Erasedと、ポールダノ監督のこれだった。どちらも2018年である。

エドガートンのBoy Erasedやこの映画を見てかんじるのは、いいたいこと(映画にしたいこと)があって、映画をつくっている──という、しごくもっともな道理である。

みょうな言い方──にきこえるかもしれないが、エドガートンもダノも、これを言いたくて映画をつくった──わけである。

プロダクションから「ちょっと監督業やってみませんか、箔も付きますし」とか、誘われたわけじゃない。

本作もBoy Erasedも、コスナーのDances with Wolvesも、ショーンペンのIndian Runnerも、ずーっと昔から、その草案をじぶんのなかで温め、俳優になり、知名度をえて、業界を知り、資金もたまって、人材も集められた──だからつくった──わけである。

こけおどし&キャリアの箔付けだけで、じっさい言いたいことなんかなんにもない日本の「鬼才」とはちがう。

まったく当たり前のことだが、創作の動機には「いいたいこと」がなければならない。

その「言いたいこと」は、昨日思いついたやつ──じゃなく、昔っから、それこそ物心ついたときから「いつかわたしはこれを映画にしてやるぞ」という信念としてたずさえてきたもの──が望ましいのはとうぜんだ。

たとえば韓国映画のはちどりにはそんな長い長い想いがあった。

ずーっと考えていたこと。
なん十ねんものあいだ、お金や仲間や機材や名声や技量がなくて、つくれなかった「いいたいこと」。

まったく当たり前のことだが、その「言いたいこと」の存在こそ「作家」になる動機である。
日本にも映画監督(あるいはなんらかの作家)になりたがっているひとが多数いるだろうが、彼/彼女は「いいたいこと」をもっているだろうか?なんてね。

海外映画をほめるのに日本をdisる、いつもながらの牽強付会へ陥ってしまったので、以下は割愛するが、エドガートンのBoy ErasedやポールダノのWildlifeを見て感じたのは、まさにそこである。

また、優れた作家の「いいたいこと」には普遍がある。
このWlidlifeも、ゆたかな普遍性があった。

(普遍普遍と、気軽に普遍という言葉をつかっているので、じぶんがどういう意味で普遍を使っているのか、いちおうせつめいしておきたいが、
普遍とは、じぶんには起こりえないことであっても、そういうことはあってもおかしくないと思える現象をさしている。
さらに、じぶんとは違うひとであっても、そのひとの気持ちが、わからないわけではない人もさしている。
また、それらの現象や人に、じぶんの経験をつうじて、似たものや近親性をかんじることを、そうじて普遍と言っている。)

まるでトレイシーチャップマンのFast Carのように、貧しさと隣り合わせに生きている60年代の女性にとって、生活を経済的によくするために、身体をつかうことは、現代社会の不倫とイコールにならない。
わたしはジャネットにすこしも裏切りを感じなかった。かのじょは、ただたんに未来への不安を感じていただけだ。

しかしそれは、夫の激怒をまぬがれないし、なによりジョーの少年ゆえの心に影を落とすだろう。
だが、かれは、成長して、やがて大人たちの気持ちを知るかもしれない。
さいごに家族でポートレートを撮ったとき、すでにジョーには許容のけはいがあった。
あますぎでもなく、からすぎでもなく、哀しいけれど、なんとなくさわやかさもある映画だったと思う。それは、マリガン/ギレンホールもさることながらEd Oxenbouldの功績が大きかった。

そしてそんな人生を噛み分けたような普遍を2018年に34歳だったポールダノがもっていたことに圧倒された。日本の34歳はこれをつくれるだろうか?とか思った。