津次郎

映画の感想+ブログ

ジュブナイル、頭の中編 インサイド・ヘッド (2015年製作の映画)

インサイド・ヘッド (吹替版)

5.0
Pollyannaというアメリカの児童向け小説がある。大昔「少女パレアナ」という村岡花子訳の文庫を読んだことがあるが、日本では世界名作劇場のアニメ作品「愛少女ポリアンナ物語」として知られている。

Pollyannaは、本作で言うと、ライリーではなくヨロコビ(Joy)。
Pollyannaに出てくる「うれしい探し(Glad Game)」は、ヨロコビが担当する作業そのものである。
『嬉しいと思えることを、知らず知らず探すのよ、そしたらたいていといっていいぐらい、嬉しいと思えるものが、どんなことにも何かしら見つかるものよ。あきらめずにじっくりと探してみればね』

世界名作劇場やキャンディキャンディなどのアニメ作品には、逆境にめげずに明るく生きるヒロインが描かれている。
あれらの物語は「look on the bright side」(明るい面を見よう)ということに尽きるところがあって、本作のライリーに、ハイジやセーラやキャンディを重ね合わせるのはたやすい。
すなわち、インサイドヘッドには、過去に創られた膨大な児童文学の下地がある。

ただ、ふつう物語は主人公を直截描写するが、インサイドヘッドでは舞台裏=人の脳内へ入って、かれらの心象がどんなプロセスで創られているかを象徴化して表現している。

初めて見る世界観で、これほど大胆な発想の転換なら、どこかにほころびが出るのではないか、と思って見ていたが、完璧に消化していた。

その構造上の違いに加え、本当の主人公が、じつはヨロコビでなくカナシミ(sadness)であるところに常套な児童文学との違いがあった。──と思う。

悲しみを乗り越えて、崩壊した自我が戻ってくる過程=ヨロコビがカナシミの存在意義に気付くシーンが映画の白眉であり、暖色と寒色が混じった、より複雑な感情をかかえる大人への変貌を、シンボリックに描き出していた。

Upにも感じた完成度。日本のアニメとは異なる凄み。潤沢な資本。根性をさらりと超えてくるクリエイティビティ。かなわん系の圧倒的なディズニー映画だった。

ところで、子供にとってみると、ヨロコビを見いだして生きるのは、本人であり、自分の中にヨロコビを見いだしてくれる別の担当者がいるわけではない。そういうあざとさを子供はどんな風に消化するのだろうか、という疑問はある。

子供の頃に身に覚えのある心象、それらが誰にでも符号するように=まるで自分のことを言われているように、普遍化されている。もし自分が子供だったら、ちょっと無邪気ではいられない。そんなことを思ったので、むしろ大人向けのアニメーションだと思った。──のである。