津次郎

映画の感想+ブログ

#生きている(2020年製作の映画)

#生きている

3.0
よく思うのだが、ゾンビ映画のばあい、もはや現れるまでが、まどろっこしくて、仕方がない。

ゾンビ映画なのは分かっている。ならば「現れた→たいへんだ」の導入部が、ぜんぜん要らない。と、個人的には思う。

ただし、韓国映画ならば、少なくとも解っている人がつくっている──という既認識があるゆえに、日本のゾンビ映画を見る時のような、不安はない。

NetFlixのストリーミング配信がはじまって、はや20有余年。
統計データは知らないが、韓国のコンテンツが世界じゅうの視聴者から得た信頼性は、計り知れない──と思われる。

前半はほとんどバーニングで見たユアインのひとり舞台になっている。
金坊主で、怠惰で軽薄なゲーマーの感じをうまく演じていた。

が、個人的な感慨なのだが、NetFlixにて、生きているの放映が発表されたとき、パクシネのクレジットを見た。──見てしまった。

──その事前情報が頭にあったせいで、ユアインのひとり舞台が、長く感じられてしまう、のである。

いや、パクシネ見たさ──ゆえに感じてしまう長さ、ではなく、じっさいに冒頭からの孤立状況描写が、長すぎる。と思う。

そのため、展開に遅遅とした感じがある。韓国映画の持ち前のスピード感が顕在してこない。

また、ゾンビ映画でよく思うこと、のもう一つに、健在者(非ゾンビ)の悲愴描写が要らない──がある。
怖がったり、悲しがったりが、もはや、まどろっこしい、わけである。

そもそも、ロメロがナイトオブ~を撮ったのは1968年である。
エクソシストよりも古いネタなのだ。

であるならば、現れるも要らず、怖がるも要らず、悲しむも要らない。
きょうび、そのことを、解っているゾンビ映画だけが、死なない。

生きているは、もちろん、その辺は解っている人たちがつくっている。とは、思う。
シンギュラリティのかなめとなるものは、おそらくデジタルガジェット(ドローン/トランシーバー)と、登山用具(ピッケル)であろう。

ただ、前述したような、まどろっこしさを回避するために、隔てられたアパート間を、ドローンを使って連絡するところ──から、はじまっても、個人的には、構わなかった。
なんの事前描写もなしに、そこからはじまっても、まったく問題はなかった──と思う。

とはいえ、映画は悪くない。
生きているを、生かしているキャラクタライズは、ゲーマーと登山家の共同作戦──である。
お互いが使うツールと、性格の有利と不利をおぎないながら、窮地を切り抜けてゆく脚本は、みごとなものだった。

加えて、なにもかも出し切ってしまいました──の感じがぜんぜんない。
環境を狭い世界に置いて、予算を抑えながら、かなり、余裕でつくっている、と思う。
プロダクトとしての全体像に、頭のよさがある──のである。

ちなみに言わなくてもいいことだが、わが国では、プロダクトとしての全体像に、頭のよさを感じるコンテンツとなると、なかなかお目にかからない。

現れ怖がり悲しみ──の描写も控えめで、孤立を脱してからは、ハラドキの楽しいゾンビ映画に仕上がっていた。
ピッケルを振り回しながら駆け抜けるパクシネはかっこよく、軽い男と重い女の対比も、うまく噛み合った。
中途の波乱もスパイスが効いて、最後まで気を抜かせない。──暗転と明転が巧かった。

なんとなくNetFlixに特化した戦略性も感じられた。
おそらく韓国は、アイドルや映画やドラマを、外交戦略と考えて、国をあげて勧奨している、はずである。

わたしには韓国映画/ドラマが好きだから──韓国人が好き、という若さはない。
ただし、コンテンツの底上げは、人種を良く見せる上で、かなり効果的な方法論だと思える。