3.5
谷崎潤一郎のエッセイに悪魔のような女(1955)のことが書かれているのを読んだ記憶があります。
悪魔のような女は、夫が愛人と結託し、心臓の弱い細君を謀殺するフランス映画ですが、文豪はその死に様に「女があんな風に死ぬのをはじめて見た」と、衝撃の胸中を綴っていました。
むろん現代人がそれを見ても、さして驚きはしないでしょう。白い入れ目をしたポールムーリスがむっくり起き上がるのはちょっとびっくりしますが、やはり古い映画です。
しかしアンリ=ジョルジュ・クルーゾーの悪魔のような女は世界じゅうで成功をおさめ、巷間の話題にのぼりました。文豪がエッセイの題材とするほどのヒット作だったわけです。
それを苦々しい思いで見ていたのがハリウッドに出向していたヒッチコックです。ヒッチコックは我々がヒッチコック劇場でかいま見るような、太った温和な伯父さんではありません。並々ならぬ対抗心を燃やしてつくったのがサイコだと言われています。
ゆえに当初から狙いは「衝撃」にありました。悪魔のような女の衝撃を追い抜こうとしてサイコが生まれたわけです。
というような話をどこかで知りましたが、この映画は動機ではなく、製作中の葛藤に焦点が置かれています。
色付けもあるはずですが、サイコ製作の内幕は、ここに描かれていることと、当たらずと言えども遠からず、だったと思います。
今では研究や証言によって、神経質で依怙地で疑い深いヒッチコック像が確立しています。それを裏付けるような映画でした。
よって、この映画の白眉は、サイコの初日、映画館のロビーで客席の反応に聞き耳を立てているヒッチコックの姿だと思います。
シャワーシーンの絶叫に、大きなリアクションで溜飲を下ろす演技に、ヒッチコックの「臆病」や「野心」があらわれていたと思うのです。
と同時に、女がシャワー中に襲われるシーン“ごとき”に映画館じゅうが悲鳴に包まれる「時代性」が見せどころでした。
ただし、アンソニーホプキンスは熱演ではあるものの、徐々に口のあたりのわざとらしい尖らせ具合が鼻についてきます。そもそもヒッチコックは柔和な顔付きですから、こわもてホプキンスには荷重ですが、これは、気になり出すと止まらない種類のことです。ゲイリーオールドマンのウィンストンチャーチルもそうですが、顔や体付きを知られた近現代人へのキャスティングの難しさを感じました。
個人的にもっとも楽しかったのは脚本家ジョセフステファノのシーンです。
おそらくステファノはハリウッドに群がる星の数ほどの脚本家のひとりで、ロークラス映画の書き手だったと思うのです。サイコは世界中の人々が見た映画にもかかわらず、たぶんストーリーを思い出せる人は僅かなはずです。脚本をまったく重要視していない映画でした。その適当さがラルフマッチオ演ずるジョセフステファノにあらわれていました。ちなみにマッチオを見たのはいとこのビニー以来でした。登場シーンはほとんど一瞬ですが、うまく山師な脚本家を演じています。
ステファノはヒッチコックに要請され「だいたい「セックス」「怒り」「母親」ってとこですかね」と場当たりを並べてサイコの執筆がスタートします。
ところがサイコ以後、Sex・Rage・Motherがスリラーのスタンダードな方法論と化してしまうわけです。
内幕の不機嫌なヒッチコックを見られる意欲作で、上述したような楽しい発見もありました。サーシャガヴァシはおそらくトリュフォーに見せたかったのだと思います。