津次郎

映画の感想+ブログ

ふんぬか、ふんどか 君よ憤怒の河を渉れ (1976年製作の映画)

君よ憤怒の河を渉れ

3.2

昔わが家にはじめてきたVHSビデオデッキはフロントローディングではなくアッパーマウントだった。
それを使って東京12チャンネルで平日の14時からやっていたようなマイナー映画をいっぱい録画した。

VHSビデオレンタルの勃興期には、ビデオを借りることで未知の映画が見られることの利便性や贅沢さに興奮した。

レンタルビデオは80年代中ごろに始まり、00年前後にはDVDへ移行したが、2010年には斜陽産業となり、2015年ネットフリックスの拡大時にはほぼ淘汰された。

が、わたしの映画知見のほとんどはテレビ放映された映画もしくはVHSレンタルビデオから得たものだ。

今日(こんにち)では、ネットフリックスをはじめいろんな配信サービスがあり、それぞれの中に何千何万という映画やテレビ番組がある。
有料とはいえ月に1,000円以内でたくさんの映画が見られる。

じぶんの来歴からすると今世の便利さにもっとエキサイトしていいはずだ。

しかし人間、サービスやテクノロジーに慣れると感動が薄れる。

VODを開いて、おもむろに映画をクリックし、おもむろにシークバーをいじる。クレジットをとばし、中盤あたりの様子を眺めて、あ~だいたいこんな感じか、と思って自得する。

映画にこんなことをしていいんだろうか、と思いつつ、そんなことが何千何万という映画や映像作品にできてしまう。

映画と映画周辺のサービスに慣れれば慣れるほど、映画から感興しにくくなる。

現代のわれわれはもう新(さら)の状態にはない。概して、ほとんどあらゆるエンタメのパターンを見知ってしまっている、わけである。

この食傷の対比として思い出されるのが、この映画、君よ憤怒の河を渉れが中国へ輸出されたときのエピソードだ。

『映画は1979年に中華人民共和国(中国)で『追捕』というタイトルで公開され、文化大革命後に初めて公開された外国映画となった。公開は無実の罪で連行される主人公の姿と、文化大革命での理不尽な扱いを受けた中国人自身の姿を重ね合わせた観客の共感を呼び、映画は大変な人気を博した。中国での観客動員数は8億人に達したとされ、高倉健や中野良子は中国でも人気俳優となった。田中邦衛は中国においては「北の国から」の黒板五郎役よりも本作の横路敬二役で知られている。』
(ウィキペディア「君よ憤怒の河を渉れ」より)

ウィキでは『無実の罪で連行される主人公の姿と、文化大革命での理不尽な扱いを受けた中国人自身の姿を重ね合わせた』から大ヒットしたと解釈されているが、なんとなく違うと思う。

文化大革命時の庶民の生活ぶりをなんらかのメディアで見たり学んだりしたことがあるでしょう。

もっともわたしが見たと言っても映画(チェン・カイコーの覇王別姫(1993)やチャン・イーモウの活着(1994)など)で見ただけだし、そもそもわたしは社会派ではないので、わかった風なことは言えないが、文化大革命時の庶民生活とは言わば戦前の日本、且つそこから娯楽と贅沢品をすべて奪ったような質素な生活様態だ。

そういう生活様態でずっと生きてきた人が、突如として映画を見た。そのはじめて見た映画が日本から輸入された君よ憤怒の河を渉れだった──と考えるべきだろう。

その衝撃のはかりしれなさ。

文明の申し子であるわたしたちとて、じぶんが「はじめて映画館へ行って見た映画」はあるていど覚えているものだ。(個人的にはそれは1980年のレイズザタイタニックだが。)

映画の衝撃度を考えたとき、それがクオリティによってもたらされるのはもちろんだろう。しかし、観衆がまっさらの白紙(映画未体験)状態であるならそれはクオリティをしのぐ。

活動写真の草創期、列車がこっちへ向かって走ってくるだけのモノクロの数秒の映像を見せられた観衆は、避けなきゃぶつかると思って席を立って逃げ出した。

──という逸話と同様、君よ憤怒の河を渉れが中華人民共和国で公開され社会現象を巻き起こしたのは、すなわち『無実の罪で連行される主人公の姿と、文化大革命での理不尽な扱いを受けた中国人自身の姿を重ね合わせた』からではなく(それもあるだろうが)、同作が彼らにとってはじめて見た映画且つエンタメだったからだろう、と思うのだ。

その衝撃を想像してみる。
もはや映画で衝撃を得ることができないわたしたちは想像してみるほかないからだ。

わたしは、批評家が盛った文脈で使うことがある「人生を変えた映画」という大げさな主張には懐疑的だ。21世紀に日本の文明下を生きていて、映画がそこまで衝撃的であることなどあり得ない。もちろん他人様の内実は知る由もないことゆえ主張に異議はない。

ただ、ふつうに考えて(たとえば)幼少期からずっと山ごもりをしてきたというのでなければ、映像作品に打ちのめされたりしない。

そんなことを考える度に、君よ憤怒の河を渉れと中国のエピソードを思い出し、その衝撃について想像してみる。──わけである。

──

今見ると古さを感じるつくり。とうぜん当時中国人が感じた衝撃なんか微塵もない。

原作は西村寿行。かつて人気作家だったが映像にすると突飛な話でもある。今ならコンプラ的アウトなセリフも多いし、展開もざっくりで大味。熊は着ぐるみなのがわかるし、銃声は完全に「ズキューン」なので銃撃戦はやかましい。

「どうしておれを助けるんだ、なぜだ、なぜなんだ」
「あなたがすきだから」

聞いたこともない直情なセリフ。洞窟での出来事は(中国では)ぜんぶ検閲されたのかもしれないが、なにしろ全体が甲冑のような時代感。それらの大雑把がダイナミックであると言えなくもないが、なにしろやっぱり古かった。

ただし中華人民共和国で公開され社会現象を巻き起こし、高倉健や中野良子に全中国が惚れた──という逸話に想いを馳せながら見ると興味深い。
チャン・イーモウは後年高倉健を招聘して単騎~を撮ったしジョン・ウーはリメイクをつくった。
つまり、まっさらな状態の観衆に映画がもたらす衝撃というものを君よ憤怒の河を渉れ(が中国で公開されたときの影響)は教えてくれる。

逆に言うと、なんでも見知っているわれわれにはもはや衝撃的なんてものはないわけだから、映画から自分なりの面白みを見つけ出すのが飽食の時代のリテラシーだと思った。