津次郎

映画の感想+ブログ

それなら21世紀の男の子はあるのか~一種のクィアベイティング 21世紀の女の子 (2018年製作の映画)

1.0

タイトルが21世紀の女の子で、全員が若手女性監督。
テーマは「自分自身のセクシャリティあるいはジェンダーがゆらいだ瞬間が映っていること」だそうである。
必然的に、このパッケージは“若い女性ならでは”の映画を標榜している。
しかし映像作品に、ていうか、どんな創作物であれ“女性ならでは”を訴えてしまうのは、女性の驕りではなかろうか。

男と女が違う感性を持っていることは知っている。
ただし、創作に“女性ならでは”なんてものは世の中に存在しない。
あったとすれば、それは(たとえば)プロクターアンドギャンブルが、主婦職が存在していた昭和期にキッチン用品の使い勝手を調査/報告するために使った死語である。彼女らは素晴らしい慧眼をもっていたか──そんなことは知らない。どのみち使っていりゃ覚える。謂わばその程度のものが女性の感性/視点である。
映画に性なんて関係ないという話である。

とうぜん、子宮感覚や生理や母性や出産能力といったものを創造性と結びつけた価値観へ変換するのは間違いだ。
子宮から血液が定期的に出る現象はクリエイティヴィティとは関係がない。

1902年生まれのリーフェンシュタールはゲッペルスに頼まれて国策映画を撮るのであって、子宮感覚とやらでナチスから擁護されたわけではない。
リーフェンシュタールから120年経て、若い女性・映画監督の組み合わせに、たんにその他愛もない立脚点を壮語していること自体がつたない。
若い女性で映画監督だから──何なのか。

そんなことへ訴求ポイントをぶちまけるのは、映画を見たことがないか、心臓に毛が生えているか、もしくはその両方の言い草だ。
すなわち、この作家たちはじぶんの“女性ならでは”の感性/視点が、映画の技術や方法をも差し置いて、商品化に値するものと信じているわけである。21世紀の女の子の名の下に許容されること=若い女性だから容赦されることを知っている──わけである。
傲慢だと思いませんか?(さいきんそれにエロス資産という俗語が充てられるようになった。)

品質はその傲慢を決定づける。
青くて、感覚的。性衝動に対する背伸び。「思いはきっと伝わる」の恐喝。「女には生理があるのよ」の脅迫。ちょっとした気づきが共感されるはず──という無責任な希望的観測。演劇部の延長戦。ただの消し忘れ。・・・。

マスコミにもてはやされ、業界内の迎合的な観衆に支持され、辛辣な世評からは庇護され、けっきょく、彼女らは誰からも「あなた方の作品は未成熟すぎて箸にも棒にもかかりませんよ」とは言われない。すなわち“若手女性監督”とは言い換えると“個性を尊重する防護壁”のことだ。そういうものと理解するほかない。

ものをつくるとき、前提の初動となるのは、じぶんが他者とは異なっている。という自覚と確信だと思う。
ところが、ここに他者とは異なる感覚をもった監督なんていない。
そもそも彼女たちは、じぶんの感覚が、どんな位置にあるのかさえよく知らない。
比較しうる映画を、世界を、人間を、知らなすぎる。

海外では今、多くの女性作家が活躍している。Alma Har'elやCathy Yan、グレタガーウィグ、キャスリンビグロー、Patty Jenkins、クロエジャオ、ナディーンラバキー、Maren Ade、ケイトショートランド、Reed Morano、Céline Sciamma・・・。世界の作家と対比したとき、21世紀の女の子はじぶんの作品をどこかへ位置づけることができるのだろうか。

おそらく21世紀の女の子は「若い女性たちの目線や感覚を切り取ったものが面白い」というライト感覚なプロダクトだと思われるが、そもそも、この世に女性の視点なんてありません。

21世紀の女の子があるなら21世紀の男の子が姉妹プロダクトとして成立することになるが、じっさいそれはない。女の子が釣り要素になっているからだ。また、がんらいその気がないのに「自分自身のセクシャリティあるいはジェンダーがゆらいだ瞬間が映っていること」というテーマがクィアベイティングになっている──ことに21世紀の女の子たちは気づいているだろうか。

『実際には同性愛者ではないのに、ある人物やキャラクターが、あたかも同性愛者であるかのように匂わせたり、わざとバイセクシャルを予感させるような表現を使うなどして“性的指向の曖昧さ”をほのめかすことで、LGBTQ+の視聴者や消費者をはじめ、世間の注目を集めようとするこの商業戦略は、エンターテインメントや音楽、ファッションといったポップカルチャーの分野で昔から横行してきた。』
(クィアベイティング、ネット記事より)