津次郎

映画の感想+ブログ

ゴーストマスター(2018年製作の映画)

1.0
コピーが、究極の映画愛、全シーン全カット命がけ──となっている。
大映画祭を制覇したとのことで、トレイラーも、ものすごくつまんなそうだった。
これは、だめな日本映画のフラグを満たしている。

すなわち、1がんばったを強調する=根性論。2ローカル映画祭での受賞。3映画に「愛」を持ち出してしまう免罪符。すべてが、エクスキューズをもちいて強引に低評価を回避する日本映画の方法論を用いている。ので見た。

ちなみにポルト映画祭の審査員は、初期のピータージャクソンを思わせるVFXの完成度を評価した──と言っていた。当然これはバッドテイストやブレインデッドのことだ。

ファンタスティック映画祭系はモンドセレクション金賞受賞とおなじだと思う。協賛などの権勢で決まるのではないだろうか。出品がすくないし、妙なの受賞したら困る本物の作家は、そもそも出品しない。せかいじゅうで話題になったホラーが、ブリュッセルもシッチェスもポルトも取っていない──ことが、なにより雄弁な証拠。つまり、その受賞をセールスポイントとして誇らしげに掲げているホラー映画が、どんだけしょうもないか、みなさんもよくご存じのはずである。

世界広しといえども、とりあえず、庶民の娯楽に関係する映画祭はサンダンスだけと見ていい──と個人的には思っています。

この監督の最大の勘違いは、映画の登場人物らの驚きが、ひとつも観衆の驚きと呼応していないこと。
かれらは、怪奇現象に、いちいち身体をはって驚く。
ところが、それが見る者にとって、すこしも驚きにならない。白けまくる。まったくご苦労様なことだが、ホラーで人が殺されて、中の人たちが驚き、逃げ回る──われわれは、それに、どうやって感興すればいいのだろうか?

ただ、かれらの労をねぎらうほかに、われわれが感じることはない。そして労をねぎらわなければならない──だけな映画ほど、つかれるものはない。

映画は、ホラーのアイデアをひとつも持っていない。まったくただのひとつも無い。シチュエーションと躁的オーバーアクションだけがコメディを体現している。シチュエーションは、撮影現場。こきつかわれる下っ端ADと女子高生、そこへはらわた風の死者の書が絡む。気の利いたジョークもない。ホラーコメディを謳いながら、百歩ゆずったとしても笑えるところはひとつもない。完全に桐島の前田涼也が撮ったと言っていい。むしろ桐島のスピンオフである。

およそ、監督がアピールできるのは、ものすごく大変だったということであり、俳優さんたちと併せて、全シーン全カット命がけ──のようなエクスキューズ=自己弁護でしか、映画をアピールする術はない。それが日本映画界である。映画をけなしたら「必死で味噌汁をつくっている裏方の苦労なんかおまえたちにはわからんだろうな」と言うのが関山ではなかろうか。たしかに、そんなご苦労はわからない。

海外の気鋭の作家たちが、映画撮影の苦労を、これ見よがしにアピールするだろうか。世界広しといえども、そんなエクスキューズで、喧伝せしめるプロダクトスタンスの映画人は、日本にしかいない。

ところが観衆は作家のクリエイティブスタンスにしか用がない。われわれはサポーターでもなんでもない、たんなる娯楽を享受している庶民に過ぎない。

つまり、こんなことは、言うまでもない人生の法則なのだが、命がけとか、がんばったから──それがどうしたの?ということなのである。

それは過酷な要求でもなんでもない。あなたもわたしも、世の会社員、労働者、庶民たちは、がんばったこと──などでは評価されない。それなのに、なぜ日本映画界の人たちはがんばったことを評価対象だと考えているのだろう。ぜんぜんおかしいのである。

そもそも「愛」というのが、個人的には幻影でしかない。作り手も、批評する側も、映画愛と言った途端に、個人的には眉がつばで溶ける。映画をつくるのに、また映画を見るのに、愛なんてぜんぜんいらない。そういうたわごとを言うのは、架空の人物、桐島の前田涼也だけでいい。

もっとつかれることに、感動系の演出をしてくる。
戦い、決めぜりふを叫び、ただひたすら「おれたちがんばってます」が強調される。
その、いじましさの空気感を想像していただけるだろうか。
がんばりをけなしたら人でなしだと思われかねない──だけで乗り切ろうとする姑息。があふれている。それがどれだけ苦痛か想像していただけるだろうか。

さらに、ねたがふるい。ADの名が黒沢明とか、壁ドンとか、スペースヴァンパイアのオマージュとか、おかしいな、このひとおれよりふたまわりは若いはずなんだけど。愛と平成の人物像なのはなぜですか?文明と隔絶したところで映画撮っているのですか。
タランティーノは?」「あいつはいい」←なんの意味が。
高校生の帰り道みたいな、さえない台詞。あたまがいいの逆の印象が全編を覆っていました。

もはや日本映画に求めたいのは謙虚さだけなんです。がんばったという承認欲求と、えたいのしれない気取りをふるい落としてもらうだけでいいんです。たんなる仕事とわりきって映画を撮ってほしいと切に思っている。

ホラー映画というものが、むしろ映画の主潮流になったこんにち、ローカルなファンタスティック映画祭が意味をなさなくなっている。
つまりアスターのような賢人は、ホラーで映画界入りした、とはいえその自在な筆致を見れば、ホラーでなくてもいけることが明白なのである。

ポルト映画祭は、これに授与しているけれど、ジャクソンのBraindeadとの対比はあまりにも強引すぎる。Braindeadは宝石のようなカルト映画であり、世界中の人々が愛する驚きのNZ映画だった。ただ、なんらかのコメントを残さなければならないポルトの審査員は、やむなくジャクソンの初期と述べたわけである。とうぜんそこから第9地区ラブリーボーンロードオブザリングへ繋がっていくジャクソンとこの監督にはなんの共通点もない。
ジャクソンがスプラッターから入ったのは、こんにち、アスターやピールやミッチェルがホラーから入ってきたのと同等の理屈なのである。

つまりファンタスティック=ホラーはいまやもっとも面白い映画の主潮流になっているゆえに、今後ブリュッセルやシッチェスやポルトは、この前田涼也くんと心中してしまわないように、方向性の変換を余儀なくされるだろう──と思ったのである。

クリエイターとちがって、会社ならばマニュアルや規範がある。スタバやマクドナルドで、スタバやマクドナルドらしくない店員はひとりもいない。間違った方法で、いくら努力しても、懲戒解雇されるだけである。

しかし、クリエイターといえども、どこかで淘汰がなければならない。おれはまだ本気だしてないだけ──なのか、ただの独善なのかを、当人に知らしめる現実の障壁があってしかるべき──ではなかろうか。日本で映画をつくるばあい、そのチェック機構が、ことごとくスルーになる。

この国では、自覚がなくて、しつこいならば、映画監督になれる。が、もちろん人様の勝手である。

大げさでもなく皮肉でもなく腹立ちまぎれのすてぜりふでもありません。心からほんとうにつまらない、つかれる映画だった。0点。