津次郎

映画の感想+ブログ

ばかでない正直者 オペラハット (1936年製作の映画)

オペラハット [DVD]

5.0
ディーズに人々が群がったのはかれが大金持ちになったからだが、つけこんだのは、無欲で正直だったからだ。ひとは、無欲すぎるひと、正直すぎるひとをばかだと思う。億万長者になってさえ、富者らしい驕慢がみえないなら、ばかに見えてしまう。ばかと見なされたら、財産を狙って審問にさえかけられる。風刺だが、現実もそのとおりだと思う。

しかし、ディーズは無欲で正直だが、ばかではなかった。無欲で正直なのに、とてもかしこいキャラクターだった。そこに超凡の価値がある。

いっぱんにキャラクターは無欲で正直(どちらか一方でも)ときたら、かならずばかに描かれる。ばかはかわいそうにつながり、かわいそうは同情につながり、同情は簡便な客寄せとなる。

人は欠けた者にシンパシーを寄せる。だからキャラクターにエクスキューズを設ける。弱者。貧乏人。圧政下の臣民。暗い過去を持つ者。戦争被害者。DV被害者。障がい者。迫害された人。虐げられた人。・・・。──エクスキューズを設けると、物語に複雑な奇想をほどこす必要がなく、たやすく同情がかせげる。からだ。

だけどアメリカ映画はすでに1936年に無欲で正直なのに、ばかではないキャラクターをつくっていた。ばかではない──ばかりか、ディーズは、理不尽なことを言ってくる奴をブン殴るほどの強者だった。

金持ちで賢くて強者。ディーズには同情する余地がなかった。エクスキューズを用いていなかった。だけどオペラハットは楽しかった。

わたしは人類にひつようなことは、頭を使って危機を回避することだと思う。だから(たとえば)Aneesh Chagantyの映画に感銘をおぼえる。ChagantyのSearchやRunの登場人物は、頭がいい。頭をフル回転させて危機を克服する。登場人物が賢いなら、とうぜんつくったひとも賢い。つくった人が賢いと感じられる映画は、わたしを感動させる。

したがって(たとえば)日本映画で、紋切り型/類型的キャラクターのちんぴらが出てきてばかなことをやって破滅すると、ばかだなあと感じると同時に、つくった人もたいがいにばかなんだろうなあ──とも思う。
(無軌道や破滅をえがくこと自体に罪はないがそれをやるならマイクリーのネイキッドのようにうまくなきゃいけない。ばかがばかを描いてはすくいがない。)

ましてや現代。現実世界にはばかなことや、ばかなやつがあふれている。あふれかえっている。なんで映画でまでばかを見なきゃならないのですか?
日本の「伝統的勘違い」は、だれもばかを見たくないのにばかばっかり描いていることだと思っている。
いまだに(たとえば)哀川翔的ちんぴらな人物像が母性本能をくすぐる──とか思っている時代錯誤のひとびとが映画をつくっている。(たとえであり、哀川翔に罪はありません。)

けっきょく日本映画界はばかがばかをえがいてばかにみせる興行集団に零落して久しいが、なかにはあなたのようにばかに拮抗しうる鑑賞眼を持ったひとがいるにちがいない。ばかなわたしはそんなことを思った。(ばかばか言ってすいません。)

金持ちで長身で強くてハンサムで賢い。安易にエクスキューズしないヒーロー像をアメリカでは既に80年以上むかしに創っていた。──という話。

現実ではあまり無いことかもしれないが、正直や不器用や素朴や無骨や田舎といったエレメントを持った男が、きらびやかな都会女の女心を溶かす。それは魅力的な景趣であり──時代を超える普遍性があった。