津次郎

映画の感想+ブログ

まったり ちひろさん(2023年製作の映画)

2.0

『元風俗嬢であることを隠そうとせず、海辺の小さな街にある弁当屋でひょうひょうと働く女性。それぞれの孤独をかかえた人たちが、彼女のもとに引き寄せられるように集まり癒やされていく。』

──という概説読んだだけで、なんか癪にさわった。ので見た。わら

不憫なor苛酷な気配や環境をもった人たちを描き弁解がましく釣っていく。喩えが伝わってくれるか解らないが日本映画って授乳見せているTiktokerがおっぱいで釣るつもりは毛頭ありませんて言ってるようなもの。かわいそうと美醜にもとづいて善悪に二極化されてしまうおなじみの日本映画世界。

元風俗嬢だけどつましく生きてますよってのはYouTubeの釣りサムネみたいなもの。日本人はじぶんや他人の来歴に“汚れ”を探し、あるとそれをシンパシー得るネタにする。日本映画もそういうアピールを常套にしている。このマーケティングを解りやすく言うと“かわいそうなんだから金よこせ”。

──

ヤフコメなどには犯罪報道によせて“世も末”発言が無数にあがってくる。

ひとは過剰一般化するのが好きで身の回りの事態が世相を縮図していると思い込むが、じっさい統計的に犯罪は減っている。

たぶん間違いなく日本人はこの惑星でも一二をあらそえる平和な環境に住んでいる。

にもかかわらず、過酷な環境を訴えて不幸自慢してしまう習性を日本人はもっている。
それはおそらく甘い人間だと思われて舐められることを怖れる──からだ。
甘ちゃんだと思われないようになんらかの経験値をアピールする必要がある。──と考える。

そんな日本人が編み出した不幸自慢のフレーズがたくさんある。

以前こうツイートしたことがある。

YouTubeには「限界」や「ギリギリ」や「崖っぷち」という語の入ったサムネで釣っている動画が圧倒的に多い。

じゃあいったいなにが限界だというのか?なにがギリギリだったり崖っぷちなんですか?かりにそういう状態だとして、それは紛争でコロされた罹災者や慰留地で虐待される難民や食えずに死んでいく途上国の孤児よりも限界やギリギリや崖っぷちなのか?

そうでないなら、なぜそんな「負」を恥ずかしげもなく掲げるのか?

だってわたしもあなたも好きなものを食べ爆弾も叫び声も降ってこない暖かい布団のなかで眠るのであって、基本的に、なに不自由ない生活環境を享受しているのに不幸だと宣ってしまうのは虚偽ではありませんか?──とは思いませんか?

──と言いたいのは、不幸自慢が日本映画の特長になっているから。

なんだったらNetFlixにあがるほとんどの日本映画もそれだしとうぜん今泉力哉もぜんぶそんな感じ。
──という展開で日本映画全般をけなすのもじぶんのレビューのワンパターンになっているのは知っています。わら

──

こういうエクスキューズの映画でかならず出てくるのが悲哀を浮き彫りにするための“悪”側の人物像でここでは豊嶋花が演じる通称オカジの父親だった。ハラスメントと神経質とサイコパスを併せ持った継父でフェミやお涙系にはこういうわけのわかんない非人間的おっさんキャラが必ず使われる。

日本映画にでてくるおっさんはみんなペドかペドじゃなければサイコパスか汚部屋か全方向ハラスメントかいずれでもなけりゃ貧乏人。固定概念が植え付けられ迷惑だし安易。

とはいえ案外まったりと展開する話でお涙も抑えめだった。
典型的な日本映画だが目くじら立てるような映画ではなかった。

ヒトミっていう片親パン与えてそうなお水(演:佐久間由衣)がつくった焼きそば食べたオカジが泣き出すところはじわっときた。にんげんの温かみって高級品食ってるときは解んねえもんなあ。

ぜんぜん弁解しないでたんたんと描いて大団円になればよかった。気の毒な雰囲気をいろいろ描かないほうがよかった。
たとえばThe Spitfire Grill(1996)(邦題:この森で、天使はバスを降りた)と比べるとみずからの来歴を弁解するにしても巧拙のちがいがはっきりわかる。

主人公に同情するのは結構。だけど主人公が同情を請うのは演出上の負け。だと思う。

──

雑談だが、お涙ちょうだいなコンテンツがウケることに随伴してColabo問題みたいな“弱者”や“かわいそうな気配”というのが日本ではものすごい儲かるってことがよく解る。だからリテラシーが必要なんだ。かわいそうを押し出してくるやつに盲目的に金なげちゃだめだ。──という話。