津次郎

映画の感想+ブログ

中絶の不条理 17歳の瞳に映る世界 (2020年製作の映画)

17歳の瞳に映る世界 (字幕版)

3.8
中絶したい女とそれを手助けする女の設定はクリスティアンムンジウの「4ヶ月、3週と2日」(2007)を思わせる。が、ムンジウのはチャウシェスク政権下で、違法中絶をする話。社会派なそれに比べて、こちらは少女の心情に焦点があたっている。

妊娠した少女と従姉妹、ふたりが遠出して中絶をする二日間のようすを坦坦とえがく。

必ずしも諒解していない関係の結果、女だけが被る不幸──その理不尽・不公平を訴えたい都合上、男を下劣に描写しているが、出てくる男全員がプレデター(女を食い物にする輩)や変質者に描かれているきらいはあった。

その誇張は理解できるが、一人くらいはまっとうな男がいてもいい気がした。

映画には描写節度というものがある。

なにかを訴えたいばあいに、それを強調するのだが、強調しすぎると──あざとくなったり、リアリティが削がれたり、うさんくさくなったり、場合によってはあほらしくも──なる。

日本のほとんどの映画監督は描写節度を持っていない。
わたしはかつて「湯を沸かすほどの熱い愛」のレビューにこう書いた。

『テーマはかわいそうな境遇。主人公双葉は薄命、娘の安澄はいじめられっ子、探偵さんは亡妻の子連れ、拓海くんは継親から逃げ出したヒッチハイカー、酒巻さんは唖者。右も左も不遇の免罪符しょっている人物だらけ。かれらが不幸自慢を繰り広げる様子はモンティパイソンの4人のヨークシャー男も顔負けで、エジプト行きたいを伏線とする人間ピラミッドなんか、全身鳥肌の恥ずかしさだったが、映画サイトは軒並み異様な高得点をつけた。
(中略)
湯を沸かすほどの熱い愛に並んだ高評価だらけレビューをながめたとき、わたしは強烈な疎外感を感じた。「泣けた」「泣けた」「泣けた」「泣けた」「泣けた」「泣けた」「泣けた」「泣けた」「泣けた」「泣けた」が居並ぶその渦中へ「爆笑しました」で突撃するのは気が引けたからだ。が、朗報!この国、フランダースの犬の最終回で天下取れっぞ!とは言っておきたい。』

かわいそうを強調しすぎるとコメディになる。
わたしにとって「湯を沸かすほどの熱い愛」はコメディだった。

悲劇なドラマをつくりたいならば、かわいそうや被害者面をひたすら強調表現すればいい──という方程式が存在するのはもはや日本映画界だけである。
また残酷をつくりたいならば風呂場で屍体をバラバラにするシーンを配置しとけばだいじょうぶ──と考えているのも日本の映画監督だけである。

かれらには描写節度がない。

描写節度とは、わかりやすく言うなら、ヒーロー/ヒロインに負の描写を加えること、あるいは悪や敵対者に共感できるような人間味が描かれることを言う。

世のなかの事象で一枚岩になっていることはひとつもない。

映画のなかの人物も、その複雑を持っていなければならない。正義に両義性がなければならない。モロも正義だし、エボシだって正義だ。絶対の悪も、絶対の善もない、複層のヒューマニティを据えることを描写節度──と言うのだ。

この映画には描写節度がある。

ふたりの少女はひたすらかわいそうな目に遭っているのだが、まったくエモーショナル方向へ落ちない。エモーショナルへ落ちないとは、観衆を泣かそうとはしない──ということ。

見ている間じゅう、ずっとヒリヒリする。

冒頭、舞台化粧して弾き語りをする主人公オータム。そんな無邪気な少女なのに、妊娠させられた男にはwhoreと罵られ、母親の後夫はクズ、バイト先の主任は変態。苦しみぬいて、スカイラーとクリニックへのバス旅をする。道中行きずりの男ジャスパーも無邪気な捕食者でしかない。

冒頭にも言ったが米(+英)映画なのにムンジウを思わせるほど暗く冷たい。

世界が冷たく、まわりのにんげんたちも冷たい。「一人くらいはまっとうな男がいてもいい気がした。」ほど、冷たい。
──のは、視点が17歳の少女だから。妊娠させられた少女にとって世界は氷のように冷たい。──と映画は言っている。

が、ぜったいにエモーションへ落とさない。ぜったいに「かわいそうなわたし、みんなわたしを見て泣いて!」とは言わない。ほとんど近接カメラで、表情が語る。冷徹な映画だった。
また、中絶ができる州、できない州という不条理についても問題を提起していると思う。

(なお「描写節度」とは便宜上の造語でじっさいにはあるかどうかわかりません。)