津次郎

映画の感想+ブログ

救われないのにコミカル プロミシング・ヤング・ウーマン (2020年製作の映画)

プロミシング・ヤング・ウーマン (字幕版)

4.0
活動家は冷静であってほしいが、環境保全や女権拡張や反捕鯨/イルカ漁や反体制や菜食主義や動物愛護のひとたちは、概してみんな過激である。

自分と違う意見をぜったいにゆるさない。とりわけフェミニズムを標榜している著名人はあたまのおかしい人ばかりだ。と思う。(偏見です。)

たとえばそんなフェミの集団が、ジェンダーにまつわる差別や迫害や不満や疑問を、一般大衆にもわかる創作物にしたいばあい、武闘派だけだとやっぱムリである。

世間に向けてプロパガンダするなら男は全員ケモノだ!と息巻いても効果はあがらない。映画なんて特にそう。冷静で頭のいい人がつくらないと、なんにも伝わらない。

クレジットを見たら監督は女性。女優で初長編とのこと。製作にマーゴットロビーがいて主演はキャリーマリガン。布陣からもタイトルからもジェンダーっぽいものを予想した。

とりわけ明確にフェミニズムの映画というわけではない。が、女性に対する侮辱や暴力を、ひねった方法でつたえている。

救われない展開をするのだが、なぜかみょうに笑える。イギリス人らしい。そして冷静。基本的に女性が女性の難や偏頗をうったえる映画なので、男の描写によって監督の理知を測ることができる。

──つまり、日本のフェミがフェミな映画をつくったら、男を抗日映画の日本兵のようにしか描かないだろう。冷静じゃないんだから。
女性の自立を描いたずっと独身でいるつもり?っていう人気女子アナが初主演した日本映画があるけどそこにはばかな男しかでてこない。ていうか男をばかにしか描いていない。そんな一方向デザイン(性偏向)の話なんぞ誰が信用するのって話。ばかにすんなや。

ぎゃくに女性がフェミな映画をつくって、そこにでてくる男の描写が冷静ならば、それをフェアな映画と見ることができる。──という話。

本作で冷静な描写をされる男はふたり。
Emerald Fennell監督心得たもので、どちらも名バイプレイヤーを充てている。

ひとりはキックアスなどに出てくるギーク役がとくいなChristopher Mintz-Plasse。カサンドラが酔っていないことを知って、かんぜんに怖じ気づく。状況に乗じただけの与太公で、女の敵となる真の捕食者じゃない。カサンドラはかれを見逃す。なお、このシークエンスは、すごく笑えた。

もうひとりがAlfred Molina。昔からよく見るバイプレイヤー。無罪にしたことで良心の呵責にさいなまれている弁護士役。かんぜんにまっとうな男で、死後を託された。

リーワネルの透明人間(2020)は凝ったSFだったが、DVに対する警笛になっていた。いや、むしろあれは女性のDV被害を申し立てる映画をつくろうとして、透明人間になったわけ──である。

本作も初動にはレイプ犯許すまじ──があったはずだが、そこへ猟奇色や復讐劇やなんとなく安っぽいスリラーの風合いを肉付けした。そもそも理知的なマリガンがへべれけな(ふりをする)だけで、すでにじゅうぶんなエンターテインメントたり得ていた。

すなわち。

世間に何か伝えたいことがあるならば、それを娯楽作品にトランスフォームする必要がある──という話。