津次郎

映画の感想+ブログ

ミスエデュケーション(2018年製作の映画)

4.5
キリスト教といっても、いろいろ分派がある。
この映画の派閥はたぶんバプテストで、同性愛が、いかんことになっている。

知ってのとおり、社会は、性差別にたいして、ヒステリックな反応をおこす。

身近にいるときもあったが、いまは同性愛者が身近にいない。
身近に同性愛がないひとが同性愛者への差別に反応するのは、エスキモーがジョージフロイドの死に抗議してデモ行進をするようなものだ。

すこしまえ、政治家の「生産性がない」発言が、日本じゅうを席巻した。
おおさわぎだった。

ただし、同性愛どうしでは、子供が生まれない──とは、ふつうの事実である。
子供の作り方を知らないんだろうか?

同性愛者を差別すること。
同性愛者どうしでは子供がつくれないこと。

この二つは、つきとすっぽんのようなべっこの話である。
あとはたんに文脈だけのもんだいだ。

わたしが同性愛者だったら、子供がつくれない発言を支持する。日本は未曾有な高齢化社会であって、子供が生まれることは、なにより優先されることだ。だから同性愛者として、両刀使いの奨めでも説いてみたい。

きょうび、たんに同性愛者を差別するひとなんて、いない。
同性愛者への差別などという問題は、かなまら祭りで、ピンクの御神体をかついで市中ねり歩くような、超のんきな問題にすぎない。
彼らが本気で編むときは、みたいな、くだらない話にすぎない。

ほんとの性差別とは男女雇用機会をはじめ、社内、学内、家庭内のハラスメントにまつわる差別のことだ。そういう文脈なくして、性差別なんてものはありえない。

同性愛者は子供がつくれないという発言があったら、聡明な同性愛者であれば「だよね、その点については、ごめんなさいって思います」と述べるはずだ。それで一件落着である。びていこつ反応も、騒動もない。

だから、この騒ぎは、官房長官相手に23回質問した女史が、国営大学が細菌兵器を調造していると告発した妄想映画みたいなもんだ。たんに、与野で乳繰りあっただけの話──なわけである。

男女でも子供をつくらない人たちもいる。勝手にすりゃいいことだ。not your businessである。だけど、子供はつくったほうがいい。そうしないと、いずれ日本人が地球から消えてしまうからだ。場合によっては、それすら、かまわない。「生産性がない」とは、たんなる老婆心だからだ。孫の顔が見たいといっている親のようなものだから、ひとこと「うるせえよ」と言っておけばいい。差別なんてどこにもない。同性愛者が子供をつくれないことを認めないことのほうが、ぜんぜんおかしい。──と思っている。

以下一部ネタバレ有。
キャメロン(モレッツ)はプロムで、同性愛がバレた結果、保守的な叔母に、施設へ送致される。
そこでは、同性愛を異性愛へ変換する──という教導をおこなっている。

ジョエルエドガートンが監督業へまわったBoy Erased(2018)も、似た話だった。
個人的には、そういう施設が、一概に弊害とは思わない。ジョージフロイドと同じで、極東のわたしがそれを断罪する根拠がないからだ。

同性へ興味を持ってしまった子の、その後の社会生活を案じ、それが一種の気の迷いなら、ストレートにしてもらおう──と考えることは、保守的な親ならじゅうぶんにありえる。理解できる親心といえる。
そもそも、たんに孫の顔を見たがっている親であれば、同性愛者にたいする差別──とまでの極論にはならない。

ところが、じっさいの同性愛性向は、若年といえども変更がきくようなものではない──ゆえに、当人のなかに葛藤が生じる。そこではじめて差別・虐待が発生する──わけである。性向を変えろと言われること自体が暴力なのだが、それを保護者が自覚していない。ことの問題なのである。

同僚が自傷行為をおこして、施設が調査を受ける。
キャメロンは「自分自身を憎ませるのは精神的虐待ではないのか」と告発する。
すなわち施設はなんら矯正するところのない健全な思考を持った若者を、矯正しようとしている──わけである。
大部分が水面下に隠れた氷山のイラストに、みずからの内的葛藤を書き込んでいく。それらを克服することで、同性愛から異性愛に目覚めたとみなされる。という馬鹿らしさ。

その無意味さを、入所者も運営者も、施設長のリディア(Jennifer Ehle)を除いて、なんとなく、解っている。リディアは、カッコーの巣で言うところのルイーズフレッチャーである。

とはいえ、映画は告発の側面を持っていない。穏健でポップなスタンスである。
でも、その男性入所者の自傷行為は、性器をカミソリで切って、漂白剤をかけた──というものだ。あえて誰のせいなのか、をあげるとすれば、バプテストの教義が悪魔なのである。

がんらい同性愛とは矯整されるべきものではない。それを穏やかにうったえる映画。本気で編むときの子供っぽさと対極だった。

ただ、同性愛者にたいする差別と、同性愛を罪だとする宗教があること、これも月とすっぽんのようなべっこの話である。べっこの話をいっしょくたにしてはいけない。
たとえば「決定的証拠がない」ことと「死刑囚が犯人ではない」ことはイコールにならない。
似非リベラルたちが、世をコンプライアンスで固めて、どれだけ民衆を無知蒙昧にしてしまったか考えると、ほんとに腹が立つのである。

その点、やっぱサンダンスは信頼できる。映画はドラマ部門で受賞している。あたまのいい人たちだ。

クロエグレースモレッツの顔がよく見える映画。とらえて近寄る。その動物的な濃さ。アメリカンハニーのサシャレーンも濃い。先住民のForrest Goodluckも濃い。三人は森で大麻を栽培している。それが牧歌的に見える。解釈を委ねる大人の映画だった。

このテーマの映画に思うのはいつの時代であろうと同性愛に権利はあるが醜悪に権利はないというところ。同性愛映画の祖たる噂の二人(1961)はヘプバーンとマクレーンである。君の名前はアーミーハマーとティモシーシャラメである。荻上映画で化けるのは生田斗真である。日本じゃBLが市民権を獲得している。けっきょく見ばえに納得してしまえるなら、人類は美しいひとたちの乳繰りあいに文句はない。同性愛者が差別を感じるなら、それはたんに醜悪に見えているだけかもしれませんね。とは思う。