津次郎

映画の感想+ブログ

にせのかなしさ さよならくちびる (2019年製作の映画)

1.5
個人的に思っている日本映画の一定義なんですが、
日本映画はモラトリアムなにんげんを描いている。
日本映画はモラトリアムな作家によってつくられている。
日本映画はモラトリアムな人々に好まれる。

この定義は、おおくの日本映画に合致してしまう。と思います。
才能はそこそこだけれど、なまいきに生きる──じぶんのダメさを、わかっちゃいるんだけど、まだめくってないページがあるんじゃなかろうか、まだ出会えていないインベスターがいるんじゃなかろうか・・・そこはかとない希望をたずさえながら、とくにすごい努力するわけでもなく←ここ重要、現実に屈服したフリをしながら生きる──と、日本映画ができあがる。ような気がします。

そこそこの才能、あまり努力はしてない、からめとられる現実→からの諦観→からの哀感→「等身大」という共感を獲得。
──日本映画の常套手段だと思います。

ハルレオの音楽性は個人的にはぜんぜんですが、このてが好かれることは知っています。それは映画と共通する感慨でもありました。映画も個人的にはぜんぜんですが、雰囲気が好まれる映画だとは思いました。

個人的な音楽嗜好ですが、歌詞に露骨な人生の励まし、直截な悲哀があるとムリです。反吐が出ます。絵音のmiwa評に賛同してます。
岡村孝子に「あなたの夢をあきらめないで」という一節がありますが、正常な大人がそれを聴いて勇気づけられるとは思いません。直截表現は、個人的には歌詞じゃありません。
田園に「空のミルク瓶にタンポポ刺すあいつ」という一節がありますが、たとえば「希望」を表現するなら、そのような点景や寓意に変換すべきです。それが詞の仕事であるはずです。
また、ふたりのボーカル、パート分離してました?聴いたかぎりぜんぶユニゾンだった。気がします。デュオ、しかも二人で並んで歌うもろデュオでハーモニーしないのは妙でした。
じっさいにハルレオの映画中オーディエンスは中高生であって、ならばかれらも、意味ありげに低回せず、ポップに生きていたほうが、音楽性に合致していたのではないか──と思いました。

人は悲しむことができますが、障壁のないところで、悲しがってはいけません。雰囲気で持っていける映画ですが、映画は雰囲気で持っていっちゃいけません。と思います。
映画も音楽も、そこそこなのであれば、そんなにタメ=もったいぶった空気感をつくっちゃいけないわけです。日本映画ってなんでタメるんですかねえ。いつものにせのかなしさ(=日本映画)だと思います。

好んで繰り返し使っている警句ですが“何不自由なく生きてきた人が中島みゆきのファイトを歌ってはいけない”──とわたしは思うのです。なのに日本映画は、何不自由なく生きてきたのに中島みゆきのファイト歌っちゃってるような映画だらけ──なわけです。