津次郎

映画の感想+ブログ

圧倒的なきもさ わたし達はおとな (2022年製作の映画)

わたし達はおとな

1.0
VODの概説に『大人に成り切れない若者たちの姿を圧倒的なリアリティで描いた恋愛映画』とありましたがリアリティをかんちがいしていると感じました。

この映画の「リアリティ」の根拠は①セリフの日常性と②単焦点風カメラと③Awkward(気まずさ)だと思われます。

①日常的ななにげないセリフにこだわっているせいで会話を聞き取ることができません。字幕がひつような映画でした。

②手持ちで隠し撮りのような視点と、物体がぼけることによって被写を浮かび上がらせる撮影方法が○○のひとつおぼえのように使われています。一眼レフを買ったばかりのような無邪気さでした。

③登場人物全員が気まずいオーラをまとっています。会話も言葉の選び方も考え方も態度も表情も気まずく、ぎこちなく、すれ違います。
英語でいうならAwkward、日本語でいうなら共感性羞恥の空気感がずっとただよいます。気持ち悪い人たちでした。

①②の日常感とドキュメンタリータッチカメラによってリアルへ寄せているのは明白ですが、③Awkwardが神経を逆なでします。その“痒さ”や“痛さ”を楽しんでください──という主旨の映画で、観衆の共感性羞恥耐性が試されます。

よって売り言葉が“圧倒的なリアリティ”なら看過できますが、作り手がリアリティを狙ったならかんちがいだと思った次第です。

観衆には、修羅場に対する耐性がある人と、ない人がいます。
日本のYouTubeでは、喧嘩やぼったくりバー潜入のような一触即発の空気感、底辺生活のぎりぎり感やブラック感、多忙やワンオペの辛苦が情陸風に語られるもの──などが好まれます。それらの“修羅場”動画はよく回ります。わたしは見たいと思いません。が、そういったものが好きな“修羅場耐性”がある人にはこの映画の“痒さ”や“痛さ”が面白いはずです。

ただし現実の人間関係はこの映画ほどAwkwardではありません。この映画にはメンヘラのような人物しか出てきません。わたしは大学へ行ったことがありませんが大学がこんなところだったら引きこもりになったほうがましです。が、それらの違和感・Awkwardをあえて顕示しています。ちなみにこの方法は日本映画ではものすごく普通です。いつもの日本映画でした。

なんども言っていることですが、クソな奴やクソなことを描いて、それがペーソスになりえる──という多数の日本の映画人が信じている方法論自体がかんちがいだと思います。多くの日本映画が映画というより自意識の吐露やAwkwardに着目していますが、そんなものが商業映画になってしまうこと自体がまちがいだと思います。

折りしもNHKの連ドラちむどんどんの破綻したキャラクタライズや胸糞な展開が国民感情を逆なでした──というニュースが放送当時連日あがっていましたが、Awkwardが観衆を楽しませるわけがありません。あたりまえの話です。

この映画のやりちんもやりまんも気になりません。若さとはそういうものだと思います。その非倫理がだめなのではなくて、こんな下らんもの見せられたくない──という話です。だいたい今どき「妊娠した」に固まっちゃう男の描写──昭和期でさえ鼻白むような痴話喧嘩描写をどうどうと商業資本に乗せてくるってどうかしてるだろ。おまえら全員けつあなにしとけよ。

あとひとつ言っておきたいのですが母親の死にストーリーとの有機的つながりがまったくありません。ただ悲愴感を醸成するためだけに母親が死にます。とても短絡的でした。

なおこれらは①によって聞き取ることができた半分ほどのセリフからとらえた感想です。ぜんぜんちがうことを言っている映画だったらすいません。