津次郎

映画の感想+ブログ

かしこいばかっぽさ 恋のスケッチ~応答せよ1988~ (2015年製作のドラマ)

5.0
応答せよは1997と1994とこの1988があり年代が若いほどあとにつくられている。
後発は社会現象をまきおこした1997にあやかってつくられているがクオリティに差がないのがすごい。
ふつう柳の下の泥鰌をねらうとプロダクトとしての緊張バランスがガタガタになる。
が、応答せよのシリーズはぜんぶたのしい。
とくにこの1988は名作との呼び声が高く世界じゅうで愛されている。

ヒロインのチョン・ウンジ(1997)とAra(1994)とイ・ヘリ(1988)はそれぞれ三枚目ができる。
かのじょらに、かわいげと親しみとばかっぽさが両立しているところが、シリーズの楽しさの根幹になっていると思う。

Girl's Dayをしらなかったわたしもイ・ヘリにみりょうされた。
明るくずぼらだが繊細でもあり、感情の起伏が激しく、あまり賢くないが優しいところもあり傷つきやすさもあるスヨンには演技の気配を感じなかった。まるでイ・ヘリがそういう人であるかのような自然さだった。

ヒロインだけでなくキャストがみんな光る。いけめん陣も個性を発揮しているし、おばちゃん俳優のラ・ミランやキム・ソニョンもいいし、ベテラン男優のソン・ドンイルも画を安定させた。

そんな1988もいま(2022)思えばすでに7年前の製作である。
ドラマはスヨン役イ・ヘリが28年前を振り返る設定だった。

『ソウル市道峰区双門洞ポンファン堂の横町
わたしはここで生まれここで育った
インターネットもスマホもない時代
あの頃わたしたちは何をして過ごしていたのだろう』
(一話の冒頭のナレーションより)

1988年といえば日本はバブルだったが韓国は混乱していた。よくわかっていない素人の考証・雑感にすぎないが、全斗煥への抗議デモがあった1988前後は、日本の安保闘争みたいな時代だったと思う。

そういった社会性はあまりあらわれず、さまざまな国のひとに、懐かしいあの頃を提供してしまう「汎用的な懐かしさの表現」によって、まるでじぶんのことのように懐かしがることができた。

わたしは1988年辺りでかれらとおなじような年代だった団塊ジュニア(1971~1974生)の前後世代である。

今の人は知らないかもしれないが1988年辺りのほうが今の時代よりずっと楽だった。(大人たちはひた隠しにしていますが、今より楽な時代でした。すいません。)

たしかにインターネットもスマホもなかったが、そういうことを言うなら、もっとなんにもなかった時代の人たちは何をして過ごしていたのだろう──という話である。今のわたし/あなたがそうであるように、テクノロジーの進捗はその当時を生きる人にとってはなんの問題にもならない。

だが大人たちは大人なのでじぶんは苦労してきたんだと新しい世代に申し開きをしたい。なのでムリして不便な時代だったんだと言ってみるが、じっさい不便さはなかった。

どんな時代も生き苦しさはあるし、幸不幸は千差万別だが、バブル期を生きたわたしたちは、概して楽な時代を生きてきたので、大人をしめすことができず自信もなく、それが今の日本社会に影を落としているというか・・・もちろん、じぶんは社会的なことを言えるような玉じゃないんだが、飲食やっていたときアルバイトを面接するとぜったいそいつは俺よりも苦労している。なんか毎日じぶんの経験値に限界を感じた。

さいきんボクたちはみんな大人になれなかったという業界人の業界人向け小説・映画があったが、わたしにはなにもありません──ってことを大声でさけんで、なにも無いんだけど人生のメランコリーをやるせない気分で生きてきたんだ──みたいな、しょうもないエクスキューズをして、けっきょくボクたちはみんな大人になれなかったと言いながら、おれはすごく思慮深い大人なんだぞと言っている超エセなスノビズムの吐露があったが、それが証明しているように、ほんとに団塊ジュニア前後というものはなんにもなかった。

つまり1988の魅力は、それを懐かしいと思って見つつも、じっさいに彼らほど何かがあったわけではない、何にも無かったわたしのかれらに対する憧憬でもある。
すくなくともわたしには青春じみたことはひとつもなかったので生き生きした過去世界が懐かしい──ってより妄想によって補完される疑似の懐かしさを楽しんだ──わけである。

逆に言うと1988年を不便だったとか苦労したとかぬかしているアラウンド50の日本人はだいたい疑ってかかったほうがいい。とりわけボクたちはみんな大人になれなかった的な切なさを醸し出して自虐しているように見せつつ全く自虐していない団塊ジュニア前後はほんとにあぶないのが多い。