津次郎

映画の感想+ブログ

いじめの克明な描写 わたしたち (2016年製作の映画)

わたしたち(字幕版)

4.0
少女がいじめを被る過程が克明につづられていて、つらかった。
みごとな描写だった。

大人になって、個人主義をまとってみると、なんでもなくなるが、幼いころは、人のそっけなさに、圧倒されることがあった。

幼かったころ、そっけなさは強さとイコールだった。やがて、そうでもないことは分かるが、子供の時分、あまり寄ってこなかったり、寄らせなかったりする子は、ある種の羨望であった──と記憶している。

そんな、かれ/かのじょに取り入ろうとするばあい、どうするかというと、へりくだる。
ようするに尻尾をふる。

卑屈というほど──でもないが、じぶんを下に見せて、もの(貢ぎ物)をあげたり、なにかを手つだってやったり、する。

学校のような単位にいる人間は、疎外を気にする。
それは職場にいる大人さえ、おなじことだ。

集団のなかでは、いじめに至らずとも、なんらかの疎外感がともなうことを、わたしたちは、たぶん知っている。

大人は、人と相容れないならば、あきらめて放っておくこともできるが、若い頃は、なんとか繋がりを持とうとするゆえに、気分が深刻に疲弊する──ことがある。

幼少期において、いちばん衝撃的なことは、そっけない──と思っていたかれ/かのじょが、たんにわたしにだけそっけないのであって、ほかの皆とは、たのしそうにふるまっている──というシチュエーション、ではないだろうか。少なからず誰もが心当たりのあること、だと思う。

その感情の動きを丹念に描いていた。
おなじく韓国映画の、はちどりや飛べない鳥と優しいキツネにも感じた、際立った心象表現の豊かさがあった。

子供の頃、他人とまみえて以来、わたしたちは、自分という人間がどんなふうに見えるのか、どんな動きをするのか、どんなにおいを持っているのか──などについて、いやになるほど、考察をかさねる、ようになる。

と、同時に他人の、なにが嫌なのか、はっきりと自覚できる、ようにもなる。

やがて、じぶんもある種の「そっけなさ」を身につける。
金閣寺にこんな一節があるのを思い出す。

『滑稽な外形を持った男は、まちがって自分が悲劇的に見えることを賢明に避ける術を知っている。もし悲劇的に見えたら、人はもはや自分に対して安心して接することがなくなることを知っているからだ。自分をみじめに見せないことは、何より他人の魂のために重要だ。(三島由紀夫作「金閣寺」より)』

誰もがいじめられっこであり、同時にいじめっこでもあった。と思う。知ってのとおり、子供のころは両極を使い分けるひつようがあった。

子供を主人公にした優れた映画、前述した映画やエイスグレイドを見たときも、それを思ったが、子供の対処方法のほうが、大人より道理がある。ような気がする。大人はもはや人様の感情へ介入することはない。

女性の監督だと知って同国の底知れない水準を感じた。同国の映画には、基本を学んでいる──と感じることが多い。逆にわが国の映画には、個性を尊重している──と感じることが多い。

もし、わたしが映画学校の理事だったら「ぜったいにあなたの個性を尊重しません」──という校訓を掲げたい。