津次郎

映画の感想+ブログ

私というパズル(2020年製作の映画)

私というパズル

3.5
個人的には、出産シーンに露悪を感じた。
赤裸々な描写が、見る者を釣っている──ように感じてしまった。
妊婦の絶叫って、すごく効果的なアイキャッチになる──と思いませんか?出産と死に目って、抗えませんよね?

出産はたいへんなことにちがいない。
そのこと自体に議論の余地はない。
だいたい男なんて、傍らのラブーフがそうだったように、オタオタしている以外、することなんて、なにもない。

ただけっこうリアルな分娩を見せるのが、方法として、鼻についた。
なんでそこまで見せるの──という感じ。
そう感じたのは、基本的にわたしが食えない奴だからでもある。

海外評が参考になった。

ウィキペディアの引用なのだが、こうあった。

『(~中略)『私というパズル』のオープニングシーンは実に衝撃的なものだが、それで得たパワーを持続するのに苦戦している。しかし、ヴァネッサ・カービーの演技のお陰で、死産の悲しみを切実に描写することには成功している。』
ウィキペディア「私というパズル」より)

なんと見事な考察。
これはRotten Tomatoesの批評家の見解の要約となっていた。
tomatoesではハッとする発言を見つけることがしばしばある。

オープニングが衝撃的だから、そのあとのドラマ部が、なんとなく沈滞する→だけどカービーの演技がそれをくつがえしている・・・簡潔で明断である。

冷静に考えてみると、この夫婦は、自宅で分娩をすることを決め、助産婦をたのんで、挑んだわけである。その是非は言わないが、設備や経験などの不備により、不測の事態も了解していたはずだ。それは弁護側も突いている。

自宅出産というものは危険や責任を伴うものであり。どちらかといえばパンケーキを潰す芸人やるようなDQN行為なのではないだろうか。
よくわからないが。

もし、この映画のオープニングで「衝撃的な」出産シーンがなければ、たんに、自宅出産によって産んだ子を数分で死なせた夫婦──ってだけが知らされる事後のドラマであれば、映画ぜんたいが瓦解してしまっただろう。

ただでさえ自己責任論に寄せがちな日本人は、なんで自宅出産なんかしたんですか、それで助産婦うったえるって責任転嫁だろうが──みたいな感じで、忿懣がくすぶってしまい、事後ドラマなんか見てはいられない──からだ。

それを、完全に抑えてしまうのが、オープニングの出産シーンだった。のである。

あるていど露悪でも、半裸と苦痛と産んだ子がすぐに亡くなった──の劇的なオブセッションを、最初に置いたおかげで「DQN夫婦の自宅出産」という負の場景をスポイルすることに成功している──わけである。

そのオープニングの衝撃により、観衆は、すんなりと、彼女の悲しみに寄り添うことができた。
──はずだが、個人的には彼女に振り回されるショーン(シャイアラブーフ)が、気の毒だった。

出産時は、励まし、楽しませ、ことさら元気に振る舞って、マーサ(ヴァネッサカービー)を大事にしていたし、死産後は彼女の深い虚無感に巻き込まれる。俺だってすげえ悲しいんだ──の感じが痛々しかった。やはりラブーフじょうずだった。

だから結局、マーサ、なんで自宅出産にこだわった?──に戻ってきてしまう。

個人的には、上述したように出産が衝撃というよりは露悪だったわけで、むしろSarah Snookが演じていたDAの尻軽度のほうが衝撃だったが、この話をなんとなくさわやかにしていたのがりんごだった。
ずっとりんごを伏線してきて、ラストにしっかりシンボライズし、それがきれいに決まっていた。──と個人的には思った。
誰にとっても、いいことがない、この話が、りんごによって後味さわやかにまとまる──わけである。

ところで、映画のキーパーソンは、助産エヴァ役のMolly Parkerだったと思う。初見から、かのじょにはまったく害心が見えない。すこしも愚かに見えない。
彼女の賢明・博愛・献身の見ばえが、この自宅出産を、不幸な事故にしていた。あなたが付いていたならば、それは事故だったにちがいない。という感じ。

悲劇→混迷→再生というドラマ曲線は、オープニングとエンディングだけ出てくるMolly Parkerの善良な見た目、なかりせば、達成できなかった。監督はかんぜんに意図的にエヴァ役をMolly Parkerに振ったと思う。

それも、ふくめちょっと発声できない感じの監督(名)だけど、かなりの遣い手だと思いました。