津次郎

映画の感想+ブログ

ダウントン・アビー(2019年製作の映画)

3.5
連日皇室の結婚話が燃えている。輩がじぶんとはまったく関係のない人様の結婚に介入している理由(優位性をかんじて叩いている理由)──は税金である。マウンティングをとるために、百姓一揆があった時代のような「けつぜい」というコトバに代替している。
いったいいくら国に「けつぜい」をおさめている──かは知らない。ただ「けつぜい」で相手が萎えることだけは知っている。

言わせてもらうならヤフコメに連日投稿しているれんちゅうの税金なんぞ、一円も使っちゃいない。だいたい働いて「けつぜい」をおさめているような本物の底辺はヤフコメに投稿なんかしない。

すぐに税金を口にする輩は国に税金をおさめるルールを知ったのがいまさっきの中二と金を払ったこと以外にすがる拠り所がないにんげんだけ。れんちゅうにはテラハと皇室の結婚劇が同列に見える。言うまでもないが、どれだけはたらいているのか可視化し得ないネットコメントを常用する輩だけが「税金」や「けつぜい」を用いる。

だれのけっこんであろうと、つまづくかもしれない。はたんするかもしれない。だけど、わたしたちにはなんの関係もない。とうぜん、わたしの蚊のしょんべんみたいな「けつぜい」はかれらには使われていない。なにしろ蚊のしょんべんなんだし。よしんば「けつぜい」が使われていたとしても国に税金をおさめるのは昨日今日はじまったルールじゃない。体制にいちいち「けつぜい」を持ち出すならば、じぶんの情報を開示してから言えよ。(と思います。)

とくに腹が立つのが「~さまのためを思って」という輩。おまえなんぞコメが伸びること考えているだけの俗物じゃねえか。考えたこともない他人さまを「~さまのためを思って」などとぬかす偽善者はじ○くへおちろ。(と思います。)

記憶ベースだが森鴎外(だったか・・・違うかもしれない)のエッセイで滞独時のエピソードがある。わりとよく知られている話だと思う。下宿している家の子供が、王(か王室の誰か)が亡くなったと大泣きして、それを見た作家が驚いた──と書かれた紀行だった。

なぜ驚いたのか──といえば(近現代の)日本では皇室が、そこまで庶民の日常に結びついていないから。北の指導者のような洗脳教育によっての崇拝ではなく、子供が自然に王族に愛着と親しみを持っている様子に驚いた──という話だった。

YouTubeにある動画だが、何人かのイギリス俳優が王族の誰が好きかを挙げていく。「British Stars on Which American Accent Is Hardest to Do」(米雑誌Vanity Fairのインタビュー、幾つかの質問のなかの一つ)。
毒婦メーガンが出てくる前の動画(2015/02/10)なのでハリーの人気が高いが、故人も挙がる。それを見るとやはり親しみのレベルが日本の皇室に対するものとはちがう。Keira Knightleyが「Harry? He looks quite fun.」と言うとき、もはやわたしたちのそれとは対置ができない。

いちばんのちがいは、かれらRoyal familyは、人間的であることが許されていること。スキャンダラスなダイアナ妃だって英国民から愛され亡くなっても愛され続けている。
すなわちダウントンアビーはそもそも王及び王に関わる人々が人間的でないなら、ドラマにはならなかった。という証左のドラマになっている。

テレビシリーズの存在を知っていたが、見たのはこの劇場版がはじめて。愛憎、確執、隠し子、ゲイ、人間模様をつうじてダウントンアビーが言いたいのは下働きも侍従も王族も「わたしたちもにんげんです」てことだと思う。登場人物たちは品位を守りながら、だけど譲歩もしながら生きている。とりわけキーパーソンはマギースミスが演じたおばあ様。死期を知ったかのじょは頑迷なように見えるけれどじつは新しい世代を受け容れる慈悲がある──伝統をまもりつつ変化を拒まないそんなダウントンアビーのスピリットを代弁する人物像だった。
派手ではないが、したたかな主張をもった映画。

わたし/あなたがなまえも名乗らずに好きなことをコメントできるならば他人様が誰とけっこんしようと関知するところじゃない。無力なわたしは国にどれだけ庇護されているのかを知っている。
いちばんかわいそうなのはこんな狭量な国民に囲まれている皇室。なんでも好きなことを好きなようにやって生きてほしい。