津次郎

映画の感想+ブログ

監督賞 パワー・オブ・ザ・ドッグ (2021年製作の映画)

パワー・オブ・ザ・ドッグ

3.4
(批評家がまったく解っていないので概説しておきます。因みにわたしはじぶんだけが解っていると思っている勘違い男です。)

荒々しさを信条にしてる人っていませんか。

(たとえば)職場の厳しさを教えたい上司や先輩。仕事が厳しいのは正論だし、それを垂範するのは先達の役目だけれど、なんか妙に尊大・誇張になっちゃう人。

あるいはヤフコメによく湧く、昔語りや苦労話で盛っちゃう人。
虐待の報道に「おれなんかまいにちブン殴られてたもんだぜ」とか。
いじめの報道に「おれなんかまいにちブン殴られてたもんだぜ」とか。
その他の報道でも「おれなんかまいにちブン殴られてたもんだぜ」とか。
──言ってしまう人。なんとなく、わかりますよね。荒々しい時代・環境をサバイブして、今の厳しいおれがいる──と言いたいタイプの人。

フィル(ベネディクトカンバーバッチ)はそんなタイプ。今は亡きブロンコヘンリーを師・友人と仰ぎ、神格化し、その教えを実践しているのですが、その頑なな態度によって弟、弟嫁とのあいだに軋轢が生じます。

フィルは牛飼いの生活を荒々しいノマディズムでとらえています。
何日も牛を追い、野じゅくし、宿場では娼婦を抱き、配下を手なずけ訓練し、着のみ着のまま風呂にも入らず、それがおれたちの仕事・生き方なんだぜ、──と弟ジョージ(ジェシープレモンス)に垂範しますが、ジョージはまったくそのようには考えておらず、宿場の未亡人ローズ(キルスティンダンスト)と結婚してしまいます。
(最近知ったのですがプレモンスとダンストは現実でも夫婦です。)

ブロンコヘンリーの教えを伝える相手だったジョージが所帯持ちとなったので、いわば孤立したフィルは、ますます依怙地になり弟嫁のローズに八つ当たりするようになります。

その当て付けがましさ。カンピオン監督がうますぎて、見ていられないほど嫌らしい関係が展開します。
──だいたい、わたしほとんど弾けないって言ったよね。なんで知事に嫁はピアノ弾けるなんて言っちまうのよ。(byローズ)──という感じで、ジョージもたいがいに察しの悪い愚直すぎる男で、兄に当てられ、弟に巻かれ、ローズは酒浸りになってしまいます。

孤立したフィルが、己の求道心を満たすために目を着けたのがローズの連れ子ピーター(コディスミット=マクフィー)です。
フィルにとってピーターは性的欲求の対象でもあったはずです。
なぜなら(途中で判明するのですが)この映画の根本的な前提で、かつ秘匿された前提は、フィルがくどいほど仰ぐブロンコヘンリーが師でも友人でもなくフィルの情人(性愛関係のタチ)だったこと──だからです。

それゆえフィルがピーターに関わりはじめると、やべぇ、掘られちまうんかよ──と予感(というか悪寒)させます。
ローズはじぶんに近寄ってくることなく嫌気を発するフィルに(なんとなく)ゲイ気配を感じてとっています。それゆえフィルとピーターが癒着することにすさまじい嫌悪を感じていますが、どうにもできず酒量が増します。
しかしピーターは地雷でした。

さいしょから、もっとも脆弱なキャラクターとして描かれます。ひょろり、なよなよ、紙で花をつくり、腕タオルのウェイター姿をおちょくられ、落ち込んで独りでフラフープします。

が、一方でカンピオン監督はピーターのふてぶてしさも描きます。ふてぶてしさとは特殊な耐性と戦略性です。医学をまなんでいてウサギを捕らえて平気で開胸します。絞めるのもためらいません。一見よわよわしいのですが、かれは生類を屠ること、母親を守ること──に関してはひるまない、のです。

で、縄結いの湯桶に炭疽を仕込む──わけですが、さらに、したたかなピーターはじぶんがフィルの性的な欲望の対象になっていることを利用さえします。その描写は曖昧ですが、個人的には、そのように感じられました。
ただし。その謀殺劇に映画の焦点は(まったく)ありません。

カンピオン監督が言いたいのは孤独な男の末路です。
彼(フィル)はブロンコヘンリーの教えやカウボーイの克己主義を伝承しようとしていた、のではなく、寵愛をうけていた情人(ブロンコヘンリー)を失って寂しがっていた、だけです。
かれの荒々しさは寂しさの裏返しであり、カンピオン監督は愛と清潔感を失った時代遅れのカウボーイが身を滅ぼしていくようすを残酷に描写したのです。

フィルは髭を剃って死化粧をほどこされ生きていたときよりもずっと清潔になって棺におさまります。この映画は死んでやっときれいになった男の話です。

パワーオブザドッグが旧約聖書からの引用とか、メタファーがどれなのかとか、そういうこまっしゃくれたことを知ったからとて本作の解釈に寄与しません。映画はまったく難解はことは言っていません。

冒頭に、荒々しさを信条にしてる人っていませんか。──と言いましたが、わたしたちの身のまわりにいる、荒々しさを信条にしている人や昔語りや苦労話で盛る人ってのは、実はたんなる寂しがり屋なのかも──映画はその凡例を描いている、わけです。
(カンピオンは清潔にしていないひとも寂しがり屋だと示唆しています。)

気分が晴れる映画ではなかったけどね。

(原作は知りません。映画でカンピオン監督が言いたかった(であろう)ことをまとめました。)