津次郎

映画の感想+ブログ

恋するスマホ ジェクシー! スマホを変えただけなのに (2019年製作の映画)

ジェクシー! スマホを変えただけなのに(吹替版)

3.4
わたしのような田舎の百姓が東京へ行っていちばんおどろくのは電車に乗ると全員がスマホを眺めていることだ。“全員”に誇張はまったくない。よってわたしも「満員電車に疲弊した都会人」──の顔をつくってスマホを眺める。うまく化けられているか解らないが強いてそうする。なにせ全員がやっているので、ちがうことをするわけにはいかない。

わたしは遅いスマホ参入者で、ほんの一年前までガラケーだった。
今やガラケーだった過去が信じられない。
スマホにはわたしの資産が入っている。
社会保障が紐付けされている。

スマホを携帯していないときのわたしは無能力だ。
もし、なくしたら無価値な肉の塊になりさがるだろう。

──

「ジェクシー! スマホを変えただけなのに」は、スマホと使用するにんげんの主従が逆転するコメディ。

アレクサのような音声サービス「ジェクシー」が毒舌とスパルタ教育で、だらしない主人公フィル(アダム・ディヴァイン)を導いていく。

悪ノリしまくりのファンタジーだが風刺でもある。

わたしたちはスマホを制御しているつもりでいるが、じっさいはスマホの機能半径のなかに隷属している──とも言えるからだ。

今やスマホがなければ公共で何をすればいいのか解らない。
もはやスマホがなかった時代に電車で何をしていたのか思い出せない。

──

ほとんどアダム・ディヴァインの独演会。
多彩な顔芸と、上げ下げ自在のテンション。
動いているだけで笑わせてくれる。

「理想の男になる方法」でダダリオに猛アタックしていたが、ここではAlexandra Shippに猛アタック。(Alexandra Shippの笑顔がいい。笑顔にさせたくなる人だった。)

「ジェクシー」は毒舌で強硬だが、奥手でダサい主人公にひと押しを与えてくれた。
その教導によって結果的に主人公フィルの恋愛、友人、ビジネスチャンスが切り拓かれる。
つまりスマホが(反面としての・必要悪としての)人生の師となっているのがポイントだった。

よって、本作は現実を風刺している──と言ったが、主旨は現実とちがう。
現実では、スマホに依存すればするほど、社会性を失っていく──ことはあるが、人生が好転することはない。スマホはツール以上の意味を持たない。依存度に応じてわたしたちはむしろばかになっていく。

が、もちろんそんなシビアなことを言いたいコメディじゃない。

RottenTomatoesは21%と71%だったが、ときとしてRottenTomatoesの批評家は頭が固すぎ。スマホ社会を風刺する──という高い志の映画じゃない。ディヴァインを起用してバカをやろうとした映画。で、その目的を果たしていた。