津次郎

映画の感想+ブログ

はるヲうるひと(2020年製作の映画)

 はるヲうるひと

1.0
佐藤二朗が原作、脚本、監督を担当し、出演もしている。
著名人にたいしてがっかりしたと言う人がいるが、いみがないと思う。が、がっかりした。佐藤二朗の笑いにはツボる。だから、なんとなく洒脱なものも期待して見たのだった。ぜんぜん違った。ただのザ日本映画だった。

離島の娼宿が舞台。古色蒼然たる日活ロマンポルノ。Abused Woman、紋切りの愁嘆場、海辺で叫ぶ。死ぬほどダサい映画だった。0点。
(こんなつまんないこと考えてる人だったんだ──とがっかりしたけれど、わたしの趣味嗜好とちがっていた──ってだけ。好評もあるので、なんの問題もなし。誰に対してもいたくもかゆくもない話。)

この国では、特定の感性・方向性を持った人しか映画人(監督や俳優や脚本家)にならない。
なんていうか映画人になるひとの視野・センス・感性・向いてる方向などなどが観衆とことごとく乖離している。海外の映画を好きなひとは、日本では映画業界に入らない。でなければ(他国の映画をぜんぜん見ていないような)ザ日本映画は生まれるはずがない。

カメ止めに日本中が熱狂した。その理由はカメ止めがザ日本映画=(荒井晴彦みたいなやつ)じゃなかったから。
ネットフリックスのトップ10に日本製の映画ドラマがありますか?→そこに登るのはアニメと韓国製ドラマだけです。
映画業界は、そのことをぜんぜんわかっていない。わかっていないというか、その現象を認識できる素養がない。良くも悪くもそういう感性の人が集まるので。おそらく日本映画界は日本映画が衰退しているとさえ思っていない。重鎮の体面もあるしね。

以下は謂わば汎用な映画レビューで、この作品に限ったことではないが、本作のような典型的なザ日本映画を見たときに共通して感じること。(うまく言い得ているかどうか、わからないが。)

──

国ガチャで日本に生まれこの惑星で治安の良さでベスト10にはいる環境に住んでいる。時事ニュースに骨髄反応し犯罪が増えたとわめいている情弱なひとたちが一定数いるが日本の犯罪発生件数は減っていて、減り続けている。刑法犯認知件数──等で検索すれば3秒でわかる。
日本で生きることが楽勝だなんてぜんぜん言ってないし思わない。生きるのは苦しいことばかり。だが、国家間相対として、多くの日本人は平和な日常を過ごしている。と言える。

政策による瑕疵はある──が、すくなくとも戦争による攻撃や迫害、独裁や共産による搾取、破綻した治安の恐怖、宗教弾圧、テロリストなどを被ることなく生きている。
あなたは他国への亡命を希望していますか?
夜中にコンビニ行っても大丈夫だよね?
──わたしたちはまちがいなく平和な国に暮らしている。

すると、どういう現象がおこるか──「4人のヨークシャー男」現象がおこる。
(4人のヨークシャー男とはひとりが不幸話をはじめたところ、次に話した者が「おれのほうがもっと不幸だった」と言い、次の者はもっと不幸だったと言い──競争心を燃やしてえんえんに過剰化していくモンティパイソンのスケッチ)
ようするに不幸自慢がはじまる。ギラギラ度(過酷な体験)の披瀝自慢とも言える。
じっさい彼/彼女が、どれだけ不幸で、どれだけ壮絶な人生を生きてきたのかはわからない。だけど、彼/彼女が「不幸だったんだ・壮絶だったんだ」と自慢している以上「たいへんでしたね」と頭を垂れるほかない。

火のないところに煙はたたない──と言うが、平和な国において、不幸・悲しい出来事・凄惨な体験・闘争や暴力を語る。
──それがザ日本映画。

(「ザ日本映画」にはテレビ出身者の映画は含まれない。(さいきんで言うと)マスカレードや罪の声や祈りの幕をつくった人たち(活動拠点がテレビの監督、プロダクトスタンスとしての映画製作)に文句はありません。)

ところで、ヨークシャー男たちは、なぜ不幸自慢をすると思いますか?──とうぜん他者よりも優位に立ちたいからです。
俺のほうが過酷な人生を生き延びてきたんだぞ──のエクスキューズで「おれはスゲえんだぞ」って他者を威嚇したいからです。ザ日本映画のスタンスがそれ。

大多数の日本人は衛生無害なリヴィングキッチンのような日常を過ごしている。繰り返しことわっておくが、平和な国であっても生きることは胸苦しい。とうぜん、幸不幸の格差もあるだろう。ただ、国家が平和である以上「わたしは不幸なんです」と言ったばあい、設定に無理が生じる。ことがある。

とある日本の記者は「それでも私は権力と戦う」を標榜し、じぶんのことを悪政とたたかう戦士だと信じていた。彼女がなしえた「戦い」は時の官房長官に23回連続質問したこと。彼女のホラ話をもとに映画がつくられ、彼女の戦いをつづったドキュメンタリー映画もつくられた。・・・。

本年(2021)のノーベル平和賞をごぞんじだと思う。

『ことしノーベル平和賞に選ばれたのは、2人のジャーナリスト。ロシアの新聞「ノーバヤ・ガゼータ」のドミトリー・ムラートフ編集長(59)とフィリピンのインターネットメディア「ラップラー」のマリア・レッサ代表(58)です。政治家でも国際組織のトップでもない、ジャーナリストたちになぜ平和賞が贈られたのか?
そのヒントとなるのがロシアとフィリピンの「報道の自由度」ランキングです。
1位 ノルウェー、67位 日本、138位 フィリピン、150位 ロシア、177位 中国、179位 北朝鮮 (「国境なき記者団」まとめ)
そこにはそれぞれの国の「報道の自由」をめぐる、壮絶な闘いの日々がありました。
(モスクワ支局記者 禰津博人 マニラ支局記者 山口雅史)』
NHKのウェブサイトより)

わたしは映画「新聞記者」のレビューにこう書いた。
『わたしはヴェロニカゲリンやエドワードスノーデンやメリーコルヴィンが「それでもわたしは──」と言うなら信じられる。その活動に、死のように大きな代償が隣接しているとき、発言は壮語にならない。しかし、この記者は、この平和な国で、いったいどんな対価を払って「それでもわたしは」と述べているのだろうか──という素朴な疑問を感じずにはいられない。』

ムラートフ氏のまわりではじっさいに6人のジャーナリスト仲間が暗殺されている。信じられますか。暗殺だよ暗殺!
ロシアじゃ反政府したら殺されちまうんだよ。よかったねえ、やさしい国に生まれて。あなたはあなたの「戦う記者」のブランディングをたすけてくれた政府に感謝しなきゃいけない。感謝できないのなら、プーチンに23回連続質問すべきだ。

日本で「表現の自由」と言うと、うさんくさいだけが、ふたり(ムラートフ氏とレッサ氏)の授賞理由「表現の自由を守るため勇気を出して戦ってきたからだ」は、信じられる。生きるか死ぬか──ならば疑いの余地がない。
(たとえば)表現の不自由展は、生きるか死ぬか──だったろうか。あのたわごとにどんないみがあっただろうか。

毎年恒例──ことしもハルキストたちの期待があったが別の人物が(文学賞を)受賞した。まいどながら、低回したりなんとなくセックスしたりする男のはなしがノーベル賞をとれるとは思わない。

これらのノーベル賞の報道から、ひるがえって、じぶんが住んでいる平和な日本を、かえりみた。
そして平和ならば強がって不幸のふりをするのはやめませんか──とザ日本映画に対して(あらためて)思った。

妄想がつくりあげた不幸を作品にしてしまうと、世界の本物の不幸とくらべたとき、恥ずかしくなってしまう。それを見た観衆も恥ずかしくなってしまう。
日本映画が恥ずかしいのは据わっていない空想の不幸ばかり描いているから。不幸がないならば不幸を描かなくていい。
たとえば、たとえばだが、ハルキストが大好きな作家に多大な影響をあたえたサリンジャーはじっさいに前線に参加している。

『1942年、太平洋戦争の勃発を機に自ら志願して陸軍へ入隊する。2年間の駐屯地での訓練を経て1944年3月イギリスに派遣され、6月にノルマンディー上陸作戦に一兵士として参加し、激戦地の一つユタ・ビーチに上陸する。(中略)その後の激しい戦闘によって精神的に追い込まれていき、ドイツ降伏後は神経衰弱と診断され、ニュルンベルクの陸軍総合病院に入院する。』(ウィキペディアJ・D・サリンジャーより)

過酷な体験をしている世界や人と平和なじぶんを比べる必要はない。
ただし。しかし。平和なのであれば体験していない不幸を体験したように語ってはいけない。バイオレンスしたくても(ホラー等でないなら)バイオレンスに一定の根拠が必要。悲しみが作り話ならば技量が必要。映画ははたんに技量と物量の産物。つくりての自我よりも、大衆の見たいものに寄せているものを大衆は見たい。

うまく言い得たかわからないが、なせだれひとり楽しいことを映画にしないのか、できないのか?楽しいだけじゃ映画にならない──んなことはわかる、だけど(まいにち平和と安寧を享受しているにもかかわらず)なぜみんながみんな不幸・深刻ぶって、なんかすげえ問題かかえていそうなフリをしているのですか?「ザ日本映画」。