津次郎

映画の感想+ブログ

恨みっこなし マディのおしごと 恋の手ほどき始めます (2023年製作の映画)

マディのおしごと 恋の手ほどき始めます

3.6

ロングアイランド島の先っぽにモントークというリゾート地がある。日本に重ねると青森辺りの緯度で暖かいときが盛期になっている。マディ(ローレンス)はモントーク生まれ&育ちだが男関係も金繰りも破綻し、車税も家賃も払えない身上に落ちぶれていたところへ、グレイグズリスト(売り手→買い手、依頼者→請負人などさまざまな商品および人材をさがすアメリカのディスカッションフォーラム)に富者が箱入り息子のために筆下ろしの相手探しをしているのを見つける。謝礼は中古のビュイックリーガル。Uberの運転手を生業としているのに、商売道具の車が差し押さえに遭ったばかりの彼女は、その風変わりな依頼に飛び付く。

序盤で、夏場に観光客や富者からむしり取って閑散期を生き延びるというマディの場しのぎ的生活や性格が紹介される。
ロマンティックな物語の典型として経験豊かな年上の女性と童貞がいかに絡んで経験するかというモチーフがあるが、ふしだらなモントークのジモティであるマディが、そんな「ひと夏の経験」をさせることができるのか──という逆視点のコメディになっている。

imdb6.4、rottentomatoes71%と87%。世評・批評家ともにB+という感じのところに落ち着いた。

マディのキャラクターは世界にひとつのプレイブックと同じ究極的な強がり女かつ淫奔だけど純心なところもありでジェニファーローレンスの独壇場だった。試しにこの役をほかに当てられる人がいるか思い巡らしてみるとわかる。多情で鉄火で淫乱で純心でそれら全部入りとなるとなかなかいない。

とりわけスキニーディッピング(裸水浴)の最中に酔っ払いの集団に服をとられ、ホール&オーツのマンイーターがかかるなか文字どおり生まれたまんまの姿で3人と格闘しブレーンバスターをきめるシーン。
他にできる人がいないというより、いたとしてもこんなんジェニファーローレンスしかやらんわ──というシーンだった。

なんかローレンスには配役を超えて「あたしゃなんだってやってやるわよ」という底意地が伝わってくるときがある。

と言うのも、なにしろジェニファーローレンスである。オスカー女優である。人気もあるし知名度もある。そういう人物が台本中に“砂浜ですっぱだかで闘ってブレーンバスターをキメる”という件(くだり)がある話を選びとる姿勢がすごい。ジェニファーローレンスは伊達にジェニファーローレンスをやっているわけじゃなかった。

批評家評が今ひとつ伸びなかったポイントはドタバタしたコメディが感傷的に変化するところではなかろうか。導入部のハチャメチャな雰囲気からすると、案外こぢんまりとした調和に落ち着く。それはそれで悪くないが潮風のいたずらを見ていたらおもいでの夏に変わっていたみたいなトーン転化がコメディの勢いを失速させていると思った。

そうは言っても見たこともない女だった。ゴールディホーンとかキャメロンディアスのコメディエンヌ路線をずっと下品にして脱げと言われりゃ脱ぎますも承引してシリアス演技もできますを加えてまったく隙がない。

どうだろう、コメディを見ていて「なんなんだこいつは」と驚愕させる女がいるだろうか。それでいて憎めない。やはりジェニファーローレンスは伊達にジェニファーローレンスをやっているわけじゃなかった。

ところで邦題では「恋の手ほどき」なんていう昭和言葉を性懲りもなく使っているがご覧のとおりマディは「恋の手ほどき」なんかしていない。「手ほどき」ってなんなん、シェイクスピアじゃあるめえし。

ちなみにNo Hard Feelingを検索したら「恨みっこなし」「別に気にしてないから」「悪気はないよ」「悪く思うなよ」などなど、いろいろ訳が出てきたが、妙な関係からお互いに解き放たれるための言葉として使われているので「もうふっきれたからだいじょうぶ」という意訳がこの映画に合っていると思う。

ひと夏の経験がマディにとっても、パーシー(Andrew Barth Feldman)にとっても成長譚になっていて、さわやかだった。