津次郎

映画の感想+ブログ

予定調和 湯道 (2023年製作の映画)

湯道

2.0

日本人にはコンテンツにたいする独特の“思いやり”(とでも言うべきもの)があり、じっさいには面白くないものを愛でることができる素養をもっている──と感じることがある。

たとえば萌えやかわいいや和み要素を脳内で“面白い”と変換してしまえる能力がわれわれにはあるのではなかろうか。
かわいいに感興できる日本人の能力は、わびさびを解する日本人の心が現代社会に置き換わった因果であると、個人的にはみている。(キリッ)

たとえば孤独のグルメは松重豊ふんする井之頭五郎がいろんな飲食店でめしを食う映像作品になっているが、それに対して「くそつまんねえ」と一蹴するひとはいない。なぜならわたしたちの感性の中に松重豊や飲食店めぐりのデバイスを蔑ろ(ないがしろ)にできないという不文律が組み込まれているからだ。

たとえば「赤ずきん、旅の途中で死体と出会う。」というネットフリックス映画があったが、橋本環奈や福田雄一というデバイス群がわたしたちの“思いやり”を介することで駄作があるていどのポジションを確立するわけである。
つまらない会話と展開であっても「きっと面白いことをやろうとしているにちがいない」という未達成の意思を汲み取って、なんとなく微笑んであげることもできるわけである。

これがじっさいには面白くないものを愛でる日本人独特の“思いやり能力”であり、この能力はクリエイターの素人化や、日本映画/ドラマの没落の遠因に繋がってくるのだが、それはさておき、今やこの“思いやり能力”に当て込んだ映像作品が映画/ドラマの主流になりつつある。

グルメやおひとりさまなどといった流行のデバイスをだしにしつつ、ただたんに西島秀俊や内野聖陽や武田梨奈がめしを食ってる様子を撮る作品があるように、じっさいには何でもないことを“思いやり能力”に当て込んでつくり、それを見ると「和めますよ」あるいは「癒やされますよ」と喧伝するわけである。じっさいにそれで癒やされる人がいるかいないかはともかくそういう不文律がまかり通っているという話である。

つまり松重豊がめしを食っている映像に「和める」もしくは「癒やされる」という慣用句・不文律があり、じっさいわたし/あなたが松重豊がめしを食う映像に一ミリも癒やされていなくても、それを「癒やされる」と表現せざる得ない“思いやり能力”が日本人にはある──と言いたいわけである。

この映画もそんなわたしたちの思いやり能力に当て込んであり、あたかも和めたり癒やされたりするかのような要素がてんこ盛りになっている。
まず銭湯というレトロデバイスからしてそれだし、そこへ橋本環奈や濱田岳や生田斗真といったかわいいやなごみ系やイケメンのデバイスが絡むことによってオールスターキャストの当て込み映画になっており、じっさいに当て込みどおりの評価を獲得している。

が、個人的には退屈した。いじわるで言っているのではなくふつうにつまらなかった。じぶんが爆笑した映画を比較検証してみるのがいい。たとえばわたしは熊のぬいぐるみが狂奔するTEDを見ながら爆笑した。思いやり能力なんて使わずに笑えた。しかしこれはどうだ。笑えるか?笑えなくてもいいが、面白いか?窪田正孝と角野卓造の湯道家元のシーンはどうだ?湯へ入る所作を教えてくれるが、あれ面白いと言えるのか?

そうは言っても鈴木雅之の演出なのでアート臭や日本映画臭はなく嫌なところはひとつもない。たんにつまらないだけで、嫌な要素はまったくなかった。
また、ほのぼの要素があり、ほのぼの要素は思いやり能力と相性がいい。それはauの三太郎シリーズCMみたいなもので、牧歌性には「つまらない」評価を避ける効果がある。
全体としてそのような“思いやり能力”に頼っており個人的には笑えたところも面白いと感じたところもなかった。

近年にわかに市民権を確立した“整う”という言葉がある。そういうものを権威化する意図がさっぱりわからない。サウナへ入って「整った」だなんて、なんと空虚な矜持であることだろう。
風呂だのサウナだのじぶんの好きなように入ったらいい。映画があるていどそういう結論だったのはよかったがいかんせんつまらなすぎた。