津次郎

映画の感想+ブログ

この邦題なんとかして それでも私は生きていく (2022年製作の映画)

それでも私は生きていく

3.5

なぜ配給会社の命名センスにいちいち気分を害されなければならないのかという話です。

この映画の邦題は“それでも私は生きていく”です。

悲しみや苦難を乗り越えると次のがやってきてそれを乗り越えると次のがやってきて──そのような状況を“それでも私は生きていく”と言いたいのでしょうが、だいたいにおいて人生はそのようなものであり、言うなればわたしたち全員が“それでも私は生きていく”わけです。

原題Un beau matinを翻訳機にかけると「ある晴れた朝」と出ました。
英語タイトルもそれを英訳したOne Fine Morningですし中国圏タイトルもそれを繁体字にした美好的早晨です。

にもかかわらずなぜ日本のタイトルは“それでも私は生きていく”なのでしょうか。配給権を買ったからには改名の権利があるんでしょうが、わざわざ原題をまるっと変えて配給会社のうんこセンスを披露する意図はなんなのでしょう。

そもそも“それでも私は生きていく”とは苦労マウントの構えです。おまえの“それ”よりわたしの“それ”のほうが甚大であるから、“でも生きていく”と誇示できるんだと言いたいわけです。

観衆は“それでも私は生きていく”と挑発されてしまったので必然的に“それ”がどの程度なのか見てやろうという構えで映画を見ることになってしまうのです。

しかしもちろんそれはMia Hansen-Løve監督が意図しなかった挑発です。

──

シングルマザーのサンドラ(レアセドゥ)は視力を失い認知症も発症した父親ゲオルグの介護をしていますが宅老施設の選定に悩んでいます。既婚者のクレマンといい仲になりますが変節があり悲しみと喜びがもたらされます。
サンドラを悲しくさせるのは父の病状とクレマンとの恋仲です。簡単に言ってしまうと本作の緊張はそのふたつだけです。介護と恋愛感情の浮き沈みは現代人が負う普遍的な心労であり、率直に言って、“それでも私は生きていく”というほどの窮地ではありません。

病む以前のゲオルグは高名な哲学教師であり、聡明だった父が視力を失い且つ認知症になってしまったことがサンドラには悲しくて仕方がありません。
またクレマンが妻と別れて一緒になってくれるのかが目下の心懸かりになっています。

タイトルのゆえんとなるのは、サンドラが自宅を整理しているときに見つけたゲオルクの自伝のラフ原稿です。そこにはドイツ語で「ある晴れた朝」と書かれていました。

概説によるとMia Hansen-Løve監督の共通するテーマは個人の危機、欲望、実存主義だそうです。

『ハンセン=ラブは衝撃的または劇的な出来事を避け、微妙な感情の変化に基づいて物語を展開しています。クライマックスの瞬間は、事前の兆候なしに自然に起こります。』
(wikipedia、Mia Hansen-Løveより)

『親密でリアリストで、メロドラマがない。軽やかなタッチがありながらも、賢明な感じがする』とも評され、しばしばエリック・ロメールと比較されるそうです。今様にわかりやすく言うなら「さらに大人しい是枝裕和」という感じ。

確かに本作も概説どおりの映画で淡々と描かれています。

実存主義とは超簡単に言うと「その場しのぎ」です。「その場しのぎ」には悪い意味がありますが、事故や不幸に見舞われた時わたしたちは合理的でいられないばあいがあります。感情が揺れ動いて、刹那的な判断をします。すなわち、なにかがあったときどうするか決めていないことが実存主義です。

サンドラには色々な出来事が降りかかってきますが、それらをその都度、悩みながら乗り越えていく様子を実存主義と言っているのであり、つまり、監督が実存主義なのではなく、監督が扱う人物像が実存の体をしている──という意味です。

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これらのエスプリを含有したフランス映画のタイトルが“それでも私は生きていく”でいいはずがありません。

リアリストでメロドラマのないMia Hansen-Løve監督も泣きの入ったこの邦題を嫌うでしょうし、繰り返しになりますが本作のサンドラだけでなく、わたしたちは全員がそれでも私は生きていかなければならないわけです。

つまり“それでも私は生きていく”とは一言も言っていない映画を、あたかも“それでも私は生きていく”という苦労マウンティングをした生意気映画に思わせてしまうことにおいて、この邦題の罪は甚大だと思うのです。

imdb7.0、RottenTomatoes93%と62%。

折しも今(2024/02)とある原作者のしをきっかけに原作者の意向を護持するという問題が巷間を賑わせていますが、いずれ外国映画の自由すぎる邦題が弾劾対象になる日がくるかもしれませんよ。