津次郎

映画の感想+ブログ

今際の国のアリス(2020年製作のドラマ)

今際の国のアリス

 

商業作家をめざしている人に朗報なんだが、アガサクリスティのそして誰もいなくなったを現代に翻案すると、夢の印税生活が送れるぞ。

わたしの、とほうもない、かんちがいなだけ、なのかもしれないが、

1無作為の男女が、謎の主催者に、どこか一カ所に、集められる。
2そこで殺し合いがはじまる。
3顔面偏差値の低いひとから、じゅんばんに、死んでく。

こういう話、たくさんありませんか?

いったいだれが、それを喜んで享受しているのか──まったくわからない、にもかかわらず、この与太話は人気をえて、ドラマ/映画になる。

あなたは「なんでこんな使い古されたプロットの話が大人気/大ヒットしてしまっているのだろう?」と、不思議に思ったことはありませんか?

そして、その不思議が、定期的に来ませんか?

そのとき「あれれ、またおんなじことやってるぞ?」って思いませんか?

なので、いちおう、繰り返しておきますが、アガサクリスティのそして誰もいなくなったを(巧く)現代に翻案すると、夢の印税生活を送ることができますよ。これ、ほんとのことです。

この怪についての、わたしなりの考察ですが、

1さいきんの少年/少女にとって文化は宗教である。さいしょに触れたものが元祖になり、かれらは信者となり、他の作品に触れることも改心もできない。
2知性や知的好奇心やリテラシーが低すぎて、その話の類型性をうたがうことができない。かれらは、本気でそれを独創的で面白い話──と捉えている。
3忘れっぽい。

これらのいずれかもしくはすべてが作用し、クオリティに文明を感じさせないこのような話が再生されつづける──のではなかろうか、と思います。

さいていの予算しかないとき主人公はAV女優がやります。たしょう予算とれるとグラビアアイドルがやります。資本があれば山崎賢人が主人公です。
対する敵は、諏訪太朗、津田寛治、金子ノブアキのじゅんばんでランクアップです。

海外では日本の創作物がプラスアルファ加点でウケるという現象がありますが、それに反比例して、この国の創作物って、ことごとく想像力欠けてるよなあ──と思うことが、ひんぱんにあります。

あなたはここに出てくる人たちのキャラクタライズに独自性を感じますか?見たこともないキャラクターだなあ!とか感じたりできますか?

たとえばネビュラってぜったい喜楽も高揚もしないキャラクターですよね。エンドゲームの冒頭覚えてますよね。真顔でさびしげに「楽しかった」っていう人です。そういう「見たこともないキャラクター」がこのテの日本の創作物のなかにいることって、ありますか?むしろ、クリエイターは、類型を外してはいけない──と考えているかのように、画一的なキャラクターをつくりだしますよね?

そのことに、不思議/怪を感じる──ことはありませんか?
いや、信者としてみればバトロワ、サバゲーといえども、話にも人物にも違いがあるのでしょうが、概して大差ない世界、似たような設定、相関性、キャラクタライズ。怒濤のように降りかかってくる既視感を払いのけるだけで精一杯です。

きょうび、ドラマ/映画のメイドインジャパンクオリティに信用感じているひとはビョウキなんじゃなかろうか。なんて。
日本/日本文化が、海外でウケている/歓迎されている等々のマスコミの雑報に、くれぐれも、気をよくしたり、鵜呑みにしたりしてはいけない──と思います。

放映前なんですが、このドラマが、ひとびとの想像をうわまわるクオリティ──
で、あればすごいなあ。と思います。

ティーザーが土屋太鳳の胸部で釣っている気配が濃厚で、その「釣られ」から、見た後感のがっかりへの流れは、もはやお家芸、日本の伝統芸能と言っていいのではなかろうか。

消費者の歯ぎしりで、だから何、って話じゃないです。