津次郎

映画の感想+ブログ

戦略的マーベル ブラック・ウィドウ (2021年製作の映画)

ブラック・ウィドウ (吹替版)

3.7
なくなってしまったけれどすごく強いプロレスラーで橋本真也さんというひとがいてフローレンスピューを見ながらおもいうかべていた。ファイティングファミリーのイメージもあるが、たくましい。橋本さんはわりと童顔なひとで、似ているとまでは言わないが、おもいうかべた──わけだから、なんとなく感じはあった。

RPGでタンクという役回りがある。パーティーの先頭で、さいしょに攻撃を受けるポジション。ヒットポイントが高く、重装備ができるクラスが充てられるのが定石で、よくドワーフがそれを受け持つ。
ドワーフは短躯で髭を生やし斧を得物にしている。スピードは遅いが、頑健で生命力が高く、並外れた物理攻撃力を持っている。タンクは短躯のことではなく戦車の意味で、防壁にもなり、パーティーを延命させる上で、重要な役回りになっている。
──んなことは、誰もが知っていることだけど、フローレンスピューを見ながら「このひとタンクだよな」と思っていた──という話。

ヨハンソンもピューも新しい魅力を提示している印象をうけた。美しさを訴求している気配はなく、強さや非情さに比重している。橋本真也がリングにあがると、わたしは、両者の体格差を見て「これぜったい橋本真也のがつええだろ」としばしば思った。この映画でも「これぜったいピューのがつええだろ」と思ったが、そのアンバランスも、妙味になっている。たんじゅんなヒロイン像は、まったく無かった。

告知からこの公開まで、長い期間があった。
ケイトショートランドだと知ったとき、悲しみの演出に期待して抜擢したのだろう──とたんじゅんに考えた。
ブラックウィドウに付与したいのは出自ゆえのペーソスであろうし、ヨーロッパの人間だけが醸し出せるグリーフや憂い──というものがある。
と同時に、女流偏重の潮流も感じた。とくに海外では、抜擢や受賞などに、男女の不均衡が出ないように警戒している。

日本には女性が女性なだけでクリエイティビティが容赦される風潮が未だにあるが、海外には監督の技量に男女差がない。リーフェンシュタールのころから海外には男女の技量差が無かった。キャスリンビグローみたいなひとが続々あらわれる。だからこそ、マーベルスタジオの抜擢が女性続きなことに、ちょっとした偏重を感じた──という話。

だが、映画にはジェンダーを感じなかった。日本では未成熟な創造物の言い訳として「女性らしさ」などという欺瞞が用いられる。個人的には、女性らしさなんてものは、世のなかに存在しないと信じている。そのような「ジェンダー弁解」を完全に凌駕していた。ふせて、男が撮ったのか女が撮ったのか当ててみろと言われたって当りっこない。

まれに見るタフな追っ手だった。ナターシャにもエレーナにも「ああ疲れた、ちょっと一休み」の空白を与えない。てことは観客にも「ああすごかった、ふう」の一息を与えない。まさに畳み掛けるような追い追われ劇、かつ破壊的。わりと荒唐無稽。笑

わたしとしては、アクションシーンというものは、プロパーな手腕があってのものだと思っていた。LoreとBerlin Syndromeから、この絵づくりを、まったく想像できなかった。今更ながら、なんかやっぱあっちの映画ってぜんぜんちげえわ。と思った。

昔から、映画には、ブロックバスター的なものとアートハウス的なものがあると、思ってきた。つまり大衆的な娯楽映画と、心象や芸術性を重んじた文芸映画の二別がある、と思ってきた。
しかしどうだろうか。マーベルスタジオは新展開となる映画にノマドランドのクロエジャオを抜擢している。

本作で二人がガソリンスタンドに寄ったあと屋外の開放的かつ庶民的なカフェで向かい合ってビールをラッパ飲みするシークエンスがある。和むシークエンスで、職人系監督の描写じゃなかった。こだわって心象を扱ってきたひとの描写──だと思った。

さいきん海外のブロックバスターを見ながら「もはやブロックバスターもアートハウスもないな」と思うことが多い。エンドゲームなんか特にそうだった。ようするに、大衆的な娯楽映画が、アートハウス以上の深い心象を語り得てしまう──わけである。
またガーウィグのLittle Womenなどはアートハウスの側から、ブロックバスターに寄せ、それを成立させていた。

で思うのだが、アートハウスの作家──たとえば河瀬直美(引き合いにしてすいません)のようなアーティスティックな人たちは、じぶんは違うってことをアピールしていけるのだろうか。日本映画全体と言ってもいいが、なんかもう海外とはぜんぜんちがうことやってる気がする。