津次郎

映画の感想+ブログ

ナポリの青春 The Hand of God (2021年製作の映画)

The Hand of God

4.5
マラドーナに夢中だったファビエット少年はPaolo Sorrentino監督自身の分身です。

『ソレンティーノは1970年にナポリのアレネーラ地区に生まれ、16歳のときに両親を失い孤児となる。』(Paolo Sorrentinoのwikiより)

『ソレンティーノの2021年の長編映画『神の手』(È stata la mano di Dio)はナポリで撮影され、自伝的要素を含んでいる。ガーディアン紙は本作に関する記事の中で、ソレンティーノのこれまでの作品の中で「最も個人的」な青春物語であり、以前の作品に見られたような冷静なスタイルとは一線を画している、と伝えた。
ソレンティーノはまた、本作をスタイルの点で「全く異なる映画」と呼び、自伝的要素については「ほとんどすべてが真実である」と認めている。
ソレンティーノとトニ・セルヴィッロが再会した本作は、第94回アカデミー賞の国際長編映画賞のイタリア作品として選出された。』
(Paolo Sorrentinoのwikiより)

ネットフリックスで見ていたので、しばしば席を立ちました。(自宅なんで“席を立つ”というひょうげんはばかげていますが)家で映画を見ていると、とちゅうで冷蔵庫へいったり、トイレにいったりします。この映画の舞台は1986年ごろのナポリです。きれいなところです。冒頭からその眺望をパンします。海、島、連なる家々。ため息が出るようなところです。映画のとちゅうで、ためしにアパートの窓からおもてを眺めたら、景観の差に、さらなるため息がでたかもしれません。(そもそも隣家の壁しか見えませんが。)

家もきれいです。調度もきれいです。陽光かがやく緑の庭で、多世帯で食事をします。そこから真っ青な空と海が見えます。

監督自身が『自伝的要素については「ほとんどすべてが真実である」と認めている。』──自伝映画であるにもかかわらず、映画は寓話のようなフォルムを持っています。寓話のようなフォルムとは、あたかも作り話のような劇的な緩急と、熱狂や憧れの対象があること、です。

わたしが自分の少年時代を書いたなら、どんなに脚色してもこんなにドラマチックにはなりません。ボクたちはみんな大人になれなかった──にはなりますが、そんな話なら人様につたえる必要はありません。(個人的な意見です。)

Hand of Godが劇的なのは、マラドーナに対する熱狂と、叔母パトリツィアに対する憧れと、両親の死が三つ巴になった物語が、ナポリのうつくしい街や海や空を背景に繰り広げられるからです。

そして、この映画をみている最中に席を立ち、おもむろにイタリアのナポリとはことなる現実世界をながめたのとおなじ気分で、牽合とは知りつつ、自分の世界=日本と比べてしまったわけです。わたしは国内を輾転としてきましたが住んだ街を美しいとかんじたことがありません。

健全な精神を環境がつくるのであれば、夜な夜な狭いアパートでネットフリックスを見る日々が、陽を浴びながら歓談して海水浴をする日々にかなうわけがありません。寓話のようなフォルムとは、そういう落差のことを言ったのです。

俺はまだ本気出してないだけやモテキやボクたちはみんな大人になれなかったは寓話のようなフォルムを持ち得ることができません。言いたいことが伝わるかわかりませんが現代の日本人の人生は寓話的なフォルムを持った普遍的な物語にはなりにくいと思います。概して日本人の積む経験とナポリ人のそれが違いすぎるのです。牽合な比較をしていることは承知していますがPaolo Sorrentino監督はまだ51歳(2021)です。大人になれなかったの作家と同世代といえる僅差なのに、この映画はまるで80代の老巨匠が昔を回顧しているように見えるのです。寓話的なフォルムとは、そんな大人と子供のような格差のことを言っているのです。

おそらくこの映画を見た多数の人が映画は人生経験を積んだ者がつくるもの──と感じるはずです。もちろん、そうでなくても面白い映画はありましょうが、傷のような経験をしていなければ、出せない風合いがありました。そんな風合いを、わたしはついぞ(最近の)日本映画で見たためしがありません。
まがいもの感のない確かなフォルムを映画は持っていました。

に加えて、フェリーニのように幻想的でもありました。映画は8と1/2のように車の渋滞から始まります。役者志望の兄はオーディションを受けています。その昔フェリーニの周りに群がってきたような奇人や妖婦が出てきます。リアリティを抽出していますが、(たとえば)是枝監督風のリアリティではなく、もっとざっくりと、やわらかくコミカルに表現します。が、リアルです。夏なのにジェンティーレ婦人は毛皮を着てモッツァレラチーズの塊(みたいなのを)わしづかみで食べています。チネチッタのようなところではいつも宙づりを撮影しています。伯爵夫人は童貞喪失に挺身してくれます。ちいさなジェダイのような修道僧が起にも結にも出てきます。

Paolo Sorrentino監督自身が語る8分ほどの映画の紹介フィルムも併せて見ました。16歳で孤児になりローマへ出て37年ぶりにナポリに帰郷し、じぶんが住んでいたアパートや周辺を歩きながら、神の掌(たなごころ)に導かれた映画製作を語るのです。素っ気ないほどひょうひょうと語りますが言い知れない含蓄がありました。

Hand of Godがいい映画なのはファビエット少年が思春期につらい経験をしたから──ではなく監督が「壊れる」ことなく映画の演出や技法を習得したからです。
故郷を振り返ることなく一心不乱に走り続けた痕跡が監督の白髪にあらわれていました。