津次郎

映画の感想+ブログ

ビースト・オブ・ノー・ネーション(2015年製作の映画)

ビースト・オブ・ノー・ネーション

4.0
ロシアのウクライナ侵攻の直前にケニアのキマニ国連大使の演説が脚光を浴びた。

『かつてアフリカの国々は、列強の植民地にされ、歴史・文化・民族・宗教を無視して勝手に国境線を引かれた。そして独立に当たり、アフリカの国々は、無理やり引かれた国境線、民族や文化の分断を受け入れた。それは国境線に満足していたからではなく、平和の中に築かれる、より偉大な何かを求めたからだ。ロシアが、歴史的に近い近隣諸国との統合を切望する心情を理解できなくはないが、しかし、そのような望みを「力」によって追求することを、我々は断固拒否する。我々は、新たな支配や抑圧に再び陥らない方法で、滅びた帝国の残り火から、自分たちの国を甦らせねばならない。』(演説より)

アフリカ(の特定地域)では紛争が絶えない。

誰もがアフリカ大陸の地図にある定規で引いたように真っ直ぐな国境線を見たことがあるだろう。
大使が述べるとおりアフリカの国々は19世紀末に植民地列強が引いた国境線によってできている。
もとの民族や続柄とはかんぜんに無関係な国家がつくられたことで、国をとりまとめることが絶望的に難しくなった。
(もちろんそれだけが原因ではないが)つねにどこかで勢力が対立し、人々が逃げまどっている。

映画はキャリーフクナガ監督がシエラレオネ内戦に関する研究をしていたときに出会った小説「Beasts of No Nation」にもとづいている。
家族をころされた少年が反乱軍の兵卒になる話で、監督はそれを7年かけて脚本化した──とwikiに書かれてあった。

どんな紛争にも首謀者や指揮官になんらかの目的がある。だが雑兵をかかえると、あるのは無秩序な暴力だけだ。その虚しさを描いている。おぞましく残酷な映画だった。
本作はフクナガ監督が007(No Time to Die)の監督に抜擢される実績になっている──と思う。
(Sin nombre(闇の列車、光の旅(2009))ではメキシコの不法移民を扱っていた。日本では「日系」で「イケメン」としか紹介されないフクナガ監督だが、華やかな世界ではなく第三国や日陰に着眼していて地道で研究熱心な監督だと思う。)

ところでこの映画には黒人しか出てこない。
しばしば顧みることだが、白人しか出てこない映画を見ていて「この映画には白人しかでてこないなあ」とは思わない。
日本人しか出てこない映画やドラマを見ていて「この映画には黄色人種しかでてこないなあ」とも思わない。
だがブラックスプロイテーションや黒人種圏の映画を見ていて「この映画には黒人しか出てこないなあ」とは思う。

さいきん(2022/04)ロシアのウクライナ侵攻のネット記事のなかに『TVに映るウクライナ避難民はなぜ白人だけか――戦争の陰にある人種差別』というのがあった。

記事は──
『◆ウクライナから逃れているのは白人ばかりでなく、アフリカや中東からの留学生や移民労働者も多く含まれる。
◆白人の避難民はほぼノーチェックで隣国に逃れているが、有色人種はウクライナ側でもEU側でも差別的待遇に直面している。
◆シリア難民危機をきっかけに欧米でエスカレートした外国人嫌悪は、ウクライナ戦争で浮き彫りになっている。』
──を伝えており、脱出する列車に乗せてもらえず取り残されるアフリカ系のひとたちが抗議する動画もあった。

地味な記事で、すぐにほかのウクライナ侵攻関連ニュース記事のなかに呑まれた。

まだ侵攻がはじまって間もない頃、避難するウクライナ人の声があがっていて、そのなかに「肌が白い青い目のわたしたちがこんな目に遭うなんて」というのがあった。
白人が有している漠然とした優越感/差別意識を報道していたのだが、戦火が激しくなるとその報道も消えた。

もしウクライナが黒人あるいはアジア人の国だったら、わたしたちは現況と同じ熱量のシンパシーをかれらに寄せるだろうか──と、考えることがある。

3月末(2022/03)にはウクライナ侵攻のニュースに交じってロヒンギャ──難民キャンプの窮状や米国のジェノサイド認定などが伝えられた。
ロヒンギャベンガル人、浅黒い肌をしたイスラム教徒である。

4月に入ると日本への渡航を希望したウクライナの避難民を政府専用機に搭乗させる異例の対応で受け入れた。そのなかに黒人はいなかったと思う。

なにかに不満を言うつもりはなく、もしかれらが白人じゃなかったらわたしたちの気持ちや対応がちがうのか──について、言っている。

つまり、肌色や見た目によって人を判定する──としたら、われわれも他国人からそのような扱いをうけることを想定しておかなければならない。
どこかの国の誰かは黄色い肌をしたやつらなんかどうだっていい──と考えているかもしれない。
じぶんの中に偏向をみとめるならばそれを責めることができない。
(誇大なたとえだが)日本が戦地になったとき、白人の国は避難民の日本人を歓迎してくれるだろうか。

人には見た目があり、見た目にたいして、誰もが主観的な見地をもっているのはとうぜんだ。
が、本質を見きわめるためにいったん主観を棚上げする。

それは映画的にはリテラシーと呼ばれるものだが現実的には愛に相当するものだろう。(と思う。)