津次郎

映画の感想+ブログ

異世界と非恋愛 ロスト・イン・トランスレーション (2003年製作の映画)

5.0
テラスハウスTokyo2019-2020は疲れずに見ていられます。駆け引きはありますが許容範囲内なので安心できるのです。なんとなく人選に省察が感じられます。過去回でスゴい子が紛れ込んでしまったので、選り出しにチェック機能を設けた──ような気がします。若気はありますが皆まあまあの常識人なのです。むろんテラスハウスですからこの言及を撤回しなければならない酷い展開も今後あるかも知れませんが・・・。

見ていなかった時はテラスハウスを馬鹿にしておりましたが見始めてからは年甲斐もなく惹かれています。きれいな子たちに惹かれると同時に、未成熟に対する憤りも魅力の素因です。
友人と飲みながらテラスハウスの誰某がこんなことを言いやがったと義憤を並べると友人は静かに「それはおまえが女を知らんのだよ」と言います。それは事実なので抗いませんが、にしても、若気から生まれる苛烈な自意識には、悪態をつきたくなるのが人情というものです。じっさい軽井沢回の終局は荒み切っていました。

山里さんは性格の悪さが表に出てくる展開を期待していますが、我々としては、とうぜんそれが山ちゃんの役回りだということを解っています。ゆえに住人の一人が弄りきれないほどに悪辣では、山里さんも困るのではないかと素人推量してみるのです。軽井沢の山チャンネル最終回ではその困惑があらわれていたように感じました。

それでもそれらの物議を醸す事態が、均してみるとテラスハウスの魅力になっています。
私は今までテラスハウスは芸能人への登竜門であり、筧美和子がその出世頭だと思っていましたが、それは間違いではないものの、登竜門というよりは入口です。出演者=住人は大小の差はあれど芸能活動がスタートしたと見なすことができるからです。

すなわち個人として嫌いな住人であっても、市民権を獲得し、SNSで日がな「応援してます」と「頑張ってください」を拾っています。好悪はさしおいて、その知名度と厚顔は立派に芸能人だと思うのです。ましてや190ヶ国へ配信されている番組です。ほとんど世界デビューです。工藤静香も娘にシャネルのランウェイでなくテラスハウスの出演権を根回したほうが良かったと思うのです。

ここ数年で富にテラスハウスの海外人気が固まってきたようです。たしかに誰が見ても面白いと思えます。ただ、わからないのが翻訳です。

個人的にテラスハウスの主品目はむしろスタジオにあって、本編は副次品と見ていますが、あのスタジオの会話が翻訳し尽くせるのかが非常に興味深いのです。試しにNetFlixを英語字幕にすると英字が凄まじいスピードで流れていきます。これ、解るんだろうか、という速度です。それ以上に心配なのがスタジオで多用されるスラングです。正確にはスラングではなく、日本人にしか解らないフレーズや時事や業界事情ですが、山里さん徳井さんが発する笑いのツボは、ほぼその「スラング」を用いた例え話にあるので、それが外国人に伝わっているのかが非常に興味深いのです。

Redditにr/terracehouseという板があります。私は英語が得意ではありませんがテラスハウスに対する海外の注目度を知ることができます。およそ、そこでは「スラング」に対する質疑応答も盛んに立っています。

先日、So many ​things are lost in translation on Terrace Houseというスレッドが立ちました。スレ主は薦められてテラスハウスを見たのですが10分と見ていられなかったそうです。理由は「スラング」が解らないこと、またその逆に、本編での出演者の貧しい語彙力──住人たちのつねに平凡な日常会話に辟易した、とのことでした。その後テラスハウスを通じて日本に興味を持った人に出会い、再度、こんどは過去作のAloha Stateにチャレンジしてみたそうです。結果的にそれは面白かったようですが、ただし彼がもっとも興味を持ったのは、住人の恋愛ではなく、翻訳によって失われたことについてでした。

『Joke often didn't make sense if you don't know a specific TV programme in Japan / commercial etc. I wonder if non-Japanese-speakers have no problem understanding all the jokes. Do you have any particular examples that you didn't understand or find weird?
ここにある笑いは、日本の特定のテレビ番組やコマーシャルなどを知らなかったら、意味を為さないんだけど、それじゃあ困るんだよね。誰か他に理解不能や違和感の例あったら挙げてみてよ。』

スレッドは呼応して伸びましたが、ふと誰かがこんなことを言い出しました。
『Off the topic but the title just reminded me that the movie ‘Lost in Translation’ was actually filmed in Japan lol
板違いだけどタイトルがロストイントランスレーション思い出させるね。確かにあれは日本が舞台だったし。』
→『One of the best movies ever - especially if you know Japanese. It's hilarious. I laughed through the whole whiskey commercial scene :'D
最高の映画だね。日本知ってると更に楽しい。ウイスキーのコマーシャル爆笑したっけ。』
→『I agree! For me the hotel scene with the ... hired lady was epic af lol
同感。デリバリー女シーン、サイコーだわ。』

スレ主が言うLost in Translationとは、翻訳し尽くされなかった部分のことです。それは日本のコアな業界事情=「スラング」なので、能動的に省かれたのでしょう。あるいは別の汎用な笑いに置き換えられたのかもしれません。いずれにせよ、翻訳が失われたために、失われた部分への興味がつのったというわけです。

しかしソフィアコッポラのロストイントランスレーションは言語だけのことではありません。
主人公、ボブハリスの妻はホテルにファックスを送りつけ書斎の棚やカーペットをどれにする?などと、ボブの現況とはまったく無縁のマイペースな日常を伝えてきます。
もう一人の主人公シャーロットはカメラマンである夫に随行してボブと同じホテルに滞在していますが、夫は仕事に夢中でいつも忙しなく、シャーロットの気分を理解しません。
互いにEnglish-speakerの夫婦といえども全く意思疎通できていないのです。

それに加えて、場所は東京です。そこにいる日本人たちは恐ろしいまでに疎通ができず理解もできません。超ハイテンションなマシュー南。でたらめばかり教えるいいかげんな通訳。ストッキングをリップしてと注文してくる性接待の女。気合いだけのCMディレクター。選挙カーのウグイス嬢。病院の待合にいるお婆ちゃん・・・。

ボブとシャーロットは年も性別も経験値も違いますが、お互いに人生に疲れている東京の異邦人です。くわえて、茫漠たる東京で会話が通じた唯一の人です。果然、ホテルのバーで出会うとすぐに意気投合するのです。
いわば相棒になった二人でいるとき東京はにわかに楽しい異世界に変容します。眠らない街へ繰り出し、チャーリーと眠らない酒徒に会い、カラオケでニックロウのWhat’s So Funny ‘Bout Peace, Love And Understanding?を歌います。

それを見ながら観衆は自分がボブとシャーロットの側であることを望んでいます。ほんとうは、特に日本人の私たちは、訳の判らない東京人側にいるはずですが、翻訳能力を失った二人に強く共感しています。
ときどき私たちだって、ボブやシャーロットのように、周りの言っていること/やってることが全然判らなくなってしまうから、だと思うのです。

すなわちロストイントランスレーションとは翻訳ではなく、なにかを切っ掛けに理解能力を失ってしまった人間の鬱状態のことを言っているのです。
だけどボブはシャーロットを見つけました。シャーロットはボブを見つけました。落ち込んでいるとき、言語よりも深いところで感応する相棒を見つけ出したわけです。

とはいえ二人には男と女の「愛」も「性的欲求」も「恋心」もありません。しかし、たとえようもない感覚で強固に通じ合っているのです。

あなたは愛/性/恋愛感情のない、でも深く惹かれ合う男女関係を、映画で発見した経験がありますか?
この映画の絶対的なさわやかさは、そこにあります。

舞台が東京なのも合理だったと思います。いち地方人である私も東京へ行くとまるで他の星に来たように「いったいここで繰り広げられている、かまびすしい過剰は何なのだろう」と思うからです。何度訪れても消えない感慨です。
とりわけロストイントランスレーションが映し出す東京はきらびやかで風変わりで生活臭のない街です。それは「&TOKYO」の東京であり、セレブのインスタに載る東京であり、業界人の不実体な東京であり、そしてテラスハウスの東京です。

それを考えるとテラスハウスの男女たちから質量が消えていきます。そもそも箱に閉じこめられ大勢の人々が見るなかで愛を交わすなんて不条理な話です。
当人たちすら手探りで言葉を模索し、日本人にも読めない事態を、まして外国人へトランスレートできるはずがありません。

とうぜん、そんなショーを楽しめる私はもっと不条理です。そこで待てよ、と思うのです。ひょっとしたらボブとシャーロットは彼らなのかもしれません。外野で、なんのかんのと小馬鹿にしながら見ている我々のほうが、ロストイントランスレーションの東京人たち、なのかもしれません。
『So many ​things are lost in translation on Terrace House』
いずれにしても慧眼な指摘でした。

ところで、この映画が忘れられない理由にはエピローグの首都高もあります。
とんでもない景色だと思います。厖大な人の営みの景色です。文明という言葉を説明できる景色です。46年前、タルコフスキーが使った景色です。
上京するとき、わざわざ車を使うのはジーザスアンドメリーチェインのJUST LIKE HONEYを聴きながら首都高を走るためです。この世にふたつとない気分になれます。