津次郎

映画の感想+ブログ

居場所を探し痛みを知る エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ (2018年製作の映画)


5.0
「いじましい」とは「取り越し苦労」の意味もありますが「みっともない」の意味もあります。むしろ、みっともないの意味のほうが強いと思います。
たとえば私はFlimarksにレビューを書きますが、ときどき手直しすることがあります。これは、おもわずエッチなことを書いたとか、ちょっと熱く語りすぎたとか、事実誤認していたとか、などの理由で読んだ人が引きはしないだろうか、と心配になるからです。ところが、一般人のレビューですから特定の読者がいません。とうぜんレビューを気にする人はいません。にもかかわらず、不安になって更新するのは、完全に自意識過剰のなせるわざです。そんな無益かつ、自分が注目されていると勘違いした行為を「いじましい」と言うのです。

ただし、それは精神衛生上のことでもあるわけで、およそSNS世界では、誰でもやっていること、でもあります。フォロワーの多い人がインスタグラムに載せる写真など、きっと信じられないほど撮り直されているはずです。それには有用性があるのかもしませんが、端から見て「いじましい」と言える行為なのは免れません。

私たちの多くはネット投稿を公表していません。商用ならいざ知らず、個人が匿名でやっているネット投稿やSNSは、自分だけがそれを関知する秘密の気晴らしであったとして、なんの不思議もありません。そこに、どうしても「いじましさ」を脱却できない特質があると思います。

ケイラも、人知れず、ネットで持論を展開しています。あちらのWEBサービスはよく知りませんが、日本より顔出しに抵抗がなく、クラスメイトたちも動画系のネット投稿をやっています。ケイラも、そこでは「最も物静かな中学生」の仮面を脱ぎ去って、元来の奔放な本音を吐露しているわけです。

大人がこの件に共感できるのは、学校時代の「いじましい」自分自身を思い出すから、でもありますが、ネット投稿に起因していることもあります。
たとえば私自身、Filmarksに夜な夜な映画レビューを投稿しておきながら、日常や職場では「映画なんかぜんぜん見てねーわ」みたいな涼しい顔をして生きているのです。連れや友人にも話したことがありません。
自分がいじましいゆえに「いじましさ」に共感できるのです。

タイムカプセルに入っていたビデオレターは「2年後のあなたは人生を楽しんでいますか、友達はできましたか」と過去から尋ねていました。これを見るケイラに去来するのは、徒労感や挫折感ですが、観衆はそこに──この子はずっとコンプレックスと戦ってきたんだ──という称賛をおぼえます。
私も学校時代はたぶん敗者でしたが、同類や居場所を探していただけで、ケイラのように孤軍奮闘してはいませんでした。ましてケイラのように、じぶんのイメージを飛び出そうとしたり、プールパーティーやカラオケに参加したり、勝者なクラスメイトに物申す勇気もありませんでした。
大人になった今も、むしろなおさら、保身から脱却しようなどとは思いません。すると、逐一すべてが中学と高校の狭間にいるケイラより、大人の私のほうが不甲斐なく感じられてしまうのです。もっと抗ってみるべきだという慚愧にとらわれるのです。

映画は多感な少女の過酷な心象をとらえていて、いたいけですが、終局で父と理解しあって、重荷がとけます。
ただ、それ以上に観衆をとらえているのは、おそらく、痛みを知って成長したケイラが、心豊かな大人にならないはずがないという期待です。そのキラキラする将来に心安らぐことで、この映画がものすごく爽やかに見えるのだ、と思いました。

むしろ大人に向けられた映画のように感じられます。何か大いに反省させられるところがありました。見終えて拍手したかった映画です。