津次郎

映画の感想+ブログ

大人度のちがい 燃ゆる女の肖像 (2019年製作の映画)

燃ゆる女の肖像(字幕版)

5.0
不遜なことかもしれないが、映画レビューに「めちゃめちゃ面白かった」と「好きすぎる」を見ると、なんか日本人やべえなと思う。
むろん、これは、ブーメランにもなりえる、じぶんを差し置いた失礼な意見だが、あなたはオンラインに居並ぶ何億もの「かわいい」に辟易したことはないだろうか?
tomatoesのレビューや海外のyou tubeのコメント欄にsuper cuteとかの一語コメントが100も200も並んでいるだろうか。
わたしはえーごをよくわかっていないが、かれらは各々もっと独自性のあることを言っているはずである。

対してわが国の一般庶民の感想というものが、その識字率や教育程度にかかわらず、率直に言ってボキャブラリーが貧困すぎるうえに、画一的だと思えてしまう──ことはありませんか?

なぜこれほどまでにパーソナリティーの欠如した意見が、駄々並びしてしまうのですか?「かわいい」「めちゃめちゃ~」「好きすぎる」・・・1億2千万人も擁していながら、全員が365日かんぜんに一致した言動をしちゃっているのを、ふしぎにお感じになりませんか?

たまさか開いたレビューページに「めちゃくちゃ面白かった」が三つ四つあると、愕然としませんか?「めちゃくちゃ面白かった」って言わなきゃいけないことになっているのですか?わたしはたいした教養もない男ですが「めちゃくちゃ面白かった」がひんぱんに使われているならば、ほかの表現方法をつかおう──と思います。それは個性なんかじゃないですよ。たんなる日常の工夫です。とても、すごく、いちじるしく、はなはだ、あっとうてきに、やたら、ひじょうに、えらく、うんと、じつに、いようなまでに、さいこうに、おおいに、げきてきなまでに、もうれつに・・・。おとなになったわたしは、社会という場所が(ある意味)人と同じことをしなきゃならないところだと知っていますが、ネットに居並ぶコメントがぜんぶ同じでいいとは思いません。そもそも多様性を見る場所ですよね。だから同じようなコメントを見ると(じぶんをさしおいて)もっと面白いこと言ったらどうなの?──と思ってしまうのです。が、これは珍しい見解なんだろうか・・・。

マスコミが大衆向けに喧伝しようとして使う用語が、幼児化することがある。
(カーリングのことはよく知らないが)カーリングは競技時間が長くなるので、中継ぎ時間が設けられる。平昌(オリンピック)で、日本の女子カーリングチームが、その中休み時間に甘味を摂った。それをマスコミが「もぐもぐたいむ」と呼称した。

マスコミが言うところの「きれいすぎる」カーリングチームが「そだねー」と言いながら、「もぐもぐたいむ」にお菓子を食べていた──わけである。
わたしはかのじょらもマスコミも、ばかに見えてしかたがなかった。ばかに見えませんでしたか?

映画もドラマも、オリンピック中継でさえも、それを見て、日本・日本人が幼稚だと思えてしまうことが個人的にはある。その幼稚が、ある種納得できるのは、レビューサイトに居並ぶ、画一的なコメントがあるからだ。
日本国民に「もぐもぐたいむ」が受け容れられてしまうのなら、日毎「かわいい」を連呼する、まったく同じ感想をもつにんげんしか見ていないのなら、メディアが幼稚でもかまわないじゃないか──という感じである。
さらに、それは日本のクリエイターにとって利運でもある。なぜなら「かわいい」や、だいたいなクオリティで満足させられる大衆相手に、際立った才能は必要がないからだ。どうでもいいものをつくったとしても人気者を配すれば「かわいい」との評価でおさまりがつく──わけである。

ほんとはどうだろう。すこしは批評精神を持った大人だって映画を見ているのではなかろうか。なんらかの独自視点をもったにんげんが、映画をみることだって、あるんじゃなかろうか。

わたしはこまっしゃくれた山の手の文化人を嫌悪しており、旬○や秘○とかに批評を掲載しているわが国の伝統的な権威主義評論家が日本映画をダメにした因子だと思っているが、とはいえ、庶民の「かわいい」「めちゃめちゃ~」「好きすぎる」をもって映画が批評できるとは思わない。庶民派でありたいと思うし、権威はきらいだが、あるていどの批評精神は必要だと思う。

これらの感慨を海外のすぐれた映画を見たときに、反面的に痛感することがある。ヌリビルゲジェイランやアンドレイズビャギンツェフやアスガーファルハディ、アブデラティフケシシュ、ナディーンラバキ、グレタガーウィグ・・・多様な心象をあつかった映画を見たときに、なんの脈略もなく「日本人てあんがいばかなんじゃなかろうか」と思ってしまうことがある。どうだろうか。わたしたち日本人は理知的な民族です──と、その根拠となりえる映画をつくっているだろうか。さらにそれを正しく評価できる観衆が日本にいるだろうか。
むろん日本には世界に誇るアニメ文化やキャラクター文化はあるけれど、作り手にも見る側にも、なんか不実のようなものを感じてしまう──ことがある。

本作はパラサイトがなければカンヌも獲っていたが、他の映画賞も多数獲っているものの、それらの賞のことは、まあどうでもいい。
孤島と絶景と、レズビアンロマンスと18世紀と二人の女の繊細な心の動きのリアリティ、その顛末が息を呑むような密度で描かれている。話自体が格別にユニークでもあり、見たこともない映画体験だった。

監督はフランス人のセリーヌシアマ。この映画ではじめて知った。女性である。どうだろうか。この女流映画監督と日本の(「セクシュアリティあるいはジェンダーがゆらいだ瞬間が映っていること」をテーマとした)「21世紀の女の子」は同じ映画監督の土俵にいると見なすことができるだろうか?
ガーウィグやラバキや、クロエジャオや「はちどり」や、このセリーヌシアマ監督を見て、それでもわれわれは「女子」や「かわいい」によってクオリティがスポイル(容赦)されうると、考えるだろうか?

映画は「女であること」を弁解していないにもかかわらず、また現代にはびこる狂信なフェミの叫びとも無縁でいながら、250年前の同性どうしの出会いと別れについて雄弁に語っていた。