津次郎

映画の感想+ブログ

田舎という地獄 リアリズムの宿 (2003年製作の映画)

4.0
遠藤憲一、光石研、大杉漣、田口トモロヲ、寺島進、松重豊が出演するバイプレイヤーズというドラマがあったが、たしかに脇役(byplay)で鳴らしてきた人たちの集まりだったが、かれらはすでに大御所でもあった。それぞれ主役をはったことがあり、脇役だったとしてもぞんざいな使われ方はしなかった。知名度と露出頻度が高いため、役どころに一定の品格が保障されていた。
すなわち真意ではバイプレイヤーではなかった──といえる。

そこへくると山本浩司はほんとのバイプレイヤーだった。どこに出ていても(いい意味で)ぜんぜん目立たない。キャリアのわりに諏訪太郎のように下劣な役でもやる。
ほんとの名脇役とは誰からも気にされないような存在で居ながら、知らずのうちに主演者を持ち上げている、文字通りの縁の下の力持ちな役者を言うのではなかろうか。
(いささか古いデータだが──)

『『日経エンタテインメント!』調べ、2007年邦画助演での出演数ランキングで3位(11本)となった。これは遠藤憲一と並ぶ記録で、光石研の12本に次ぐ記録で、若くして名脇役としての地位を固めつつある。別記のとおり、主演作品も多い。』
(ウィキペディア、山本浩司 (俳優)より)

──

つげ義春のマンガが原作。

野暮ったい男の二人組、寂れた寒村、落ちない会話、ビミョウな赤マフラー、シンメトリカルと(なんとなく)こだわりがありそうな長回し。

どのシーンでも、何かが欠落した、違和と生理的な痒さ(かゆさ)のあるアンチクライマックスな会話が繰り返される。

笑いに落としてくれるわけでもなく、ひたすら気まずい。30分ほどで、お腹がいっぱいになる。

が、この違和感は、意図されたもの。解釈するには、耐えねばならない。

坪井(長塚圭史)が風呂を借りたときの、あの得体のしれない感じ。他人というもののおぞましさ。

臆病、虚栄、いじましさ、童貞の姑息さ、優越感と劣等感、どうしようもない田舎と田舎者の救いのないいかがわしさ。・・・。

ああ、嫌だ嫌だ。

──と思いながら見つつ、ふと顧みると、(かれらが)かつて自分が属性としてきたことと大差ないことに気付く。

わたしも田舎者だった。かれらとたいして変わりはなかった。

一瞬だけ出てくる“フナキ”は、田舎者のいやらしさがない。したがって対比が成り立つゆえに、ラスト近く、彼が国英駅に降り立つ絵は、ちょっと清涼を感じた。

好きになれる映画ではないが、確かにどうしようもなく嫌なリアルさがあった。

このリアルを体現していたのは(いい意味で)ぜんぜんときめかない長塚圭史と山本浩司の二人。
それは言わば(ものすごくしつれいながら)女が合コンでこのふたりと体面したときのがっかり感のようなどうしようもないリアル度だった。

今は丸みを帯びているが、この頃の山本浩司は痩せこけて、ふてぶてしく、田舎くさい。ふたりとも映画の主題にぴったりの面構えだった。

リアリズムの宿のウィキに「オフビートな笑い」との形容があったが、ご存知の方は解るはずだが、つげ義春は「オフビートな笑い」ではない。オフビートとは三木聡やジムジャームッシュのように“斜め上”や間合いを使ったコメディを言う。そもそもつげ義春は笑いではなく(あえて形容するなら)寂寥や絶望や因業や恐怖の作家だった。

結局つげ義春を映画化するなんてとうてい無理な話だが映画リアリズムの宿はかなりあの特異な空間に寄せていた──と今でも思う。