津次郎

映画の感想+ブログ

怖くなるほどむかつくくんちゃん 未来のミライ (2018年製作の映画)

2.5
くんちゃんは、おそらく普通の子です。
が、だんだん彼のわがままに嫌気がさしてきます。

かれのわがままの原因は、新しく家庭の一員となった赤ん坊に母父が付きっきりになったことにたいするジェラシーです。

しかし、弟または妹に、兄または姉が嫉妬するというペーソスは、物語のなかで、よくよく耳目にしてきたものです。
それが、変化球をつけられずに呈示されるので、なかなか、ほほえましさ、には至りません。

そもそも、くんちゃんが、シンパシーを寄せられるキャラクターになっていません。

子供の声を、大人が担当しているので、滑舌がよく、滑舌がよいゆえに「朗々たる駄駄」になってしまうのです。この朗々たる駄駄をごねまくる、くんちゃんを受け容れるのは、たいへんです。

とりわけ「好きくないの!」ってのが、とても嫌です。
──たんじゅんに言ってしまうと、くんちゃんがぜんぜん可愛くないのです。口の表象が巨大で、これって監督の前作のタイトルでもいけるんじゃなかろうか、とすら思いました。見ながら、くんちゃんをなんど張り倒したくなったか、わかりません。

物語では、くんちゃんの激しい不満やジェラシーを切っ掛けとして、別世界への扉が開きます。
それは逃避願望のようなものです。

彼が訪れる別世界が、家族の歴史を紐解き、ラストではくんちゃん自身の出生へ繋がってきます。

ゆえに映画の骨子となるのは、ミライちゃんとくんちゃんが虚空を遊泳しつつ、曾爺や曾婆の姿を透し見て、彼らの存在や努力がなければ「私たちまで繋がっていなかった──些細なことがいくつも積み重なって、今の私たちをかたちづくっているんだ」というところだと思います。

因みにこのシーンは千と千尋のクライマックスで、千尋とハクが浮遊しながら、失われていた名前ニギハヤミコハクヌシを思い出すシーンにそっくりです。

その別世界への遊泳を経て、兄であることを自覚するまでのくんちゃんを描くと同時に、子育ての苦労の絶えない母父の奮闘を描き出しています。

これらの主題は、とてもよく解ります。
あざやかなほどです。

しかし、純情へ流しすぎなのです。
妹への嫉妬や自転車の初乗りや兄としての自覚──そういった誰しも経験してきたアイデンティティの形成、また親の苦労が、ほとんど無加工に呈示されるので「それらはその通りではあるけれども、あまり面白くはない」という状況になってしまっている、と個人的には思われました。

加えて、よく細田作品に言及されることですが、なぜプロパーの声優を使わないのか?ということです。

宮崎駿監督が声優でない人が声優をやるという潮流をつくったと認識しています。
宮崎諸作品においてそれがとてもうまくいっている、とも思います。モロ、エボシ御前、釜爺、ソフィーetc、ほんとにレジェンダリーなキャラクタライズだと思っています。

ただし俳優が声優をやることには、そうでなければならない理念が必要だと思います。
バケモノの子やこの映画の声は、普通にへたです。その俳優が悪いのではなく、たんに俳優の雰囲気で声優に充てているからです。その短慮は、おどろきをおぼえるほど──です。おとうさんはおどおどしているから星野源に充てる──って、冗談みたいな短絡だと思います。

もっとうまい声優が、いくらでもいるはずです。くんちゃんが許せるなら、すぐれたプロダクトですが、作画の厖大な労苦を、声がぶちこわしにしている──と思います。