津次郎

映画の感想+ブログ

泣けたによってつたわること

お題「邦画でも洋画でもアニメでも、泣けた!というレベルではなく、号泣した映画を教えてください。」

号泣したのはプライベートライアンだと思う。

が、映画を見る人が大人になると他人様とじぶんの感じ方の違いに諦観をおぼえるようになる。
その分岐点となっているのが、じぶんにとってプライベートライアンでもあった。

わたしはかつてプライベートライアンのレビューにこう書いた。

人には感じ取り方の違いからくるどうしようもない温度差があって、わたしがいいと思った映画でも、相手にはそれほどでもない、ということは、よくある。
当時、わたしはまだ若く、若さゆえに、いいと思った映画を周囲に喧伝するほど無邪気だった。
この映画に感動し、何人かに「いいから見ろよ」と言ったのをよく覚えている。
それを、この映画以降、しなくなった。
人は、人それぞれであることを知ったからだ。
くわえて、この映画に感じないなら、じぶんと他者の壁など、とうてい克服できないと思ったからでもある。そういう映画だと思う。

こうやって、いったんじぶんの映画嗜好をアイデンティファイしてしまうと、他人様の「泣けた」にたいして共鳴する気分よりは、懐疑する気分が常態になる。
人様の号泣案件にたいして「え、あれに泣いたの?」という感じ。

泣けるものが人それぞれであることに加えて、とりわけ日本映画には泣かすことを目的とした映画というものがある。
近年で代表的なのは湯を沸かすほどの熱い愛だろう。
露命を主役に置くだけのシンプルなしぬしぬドラマで日本国民を入れ食いにさせた。じっさい釣れるわ釣れるわ、レビューが「泣けた」で埋め尽くされた。
が、わたしは笑い転げた。
他人様とじぶんの感じ方の違いに諦観をおぼえる──とはそういう落差を言う。

湯を沸かすほどの熱い愛はしぬしぬを頂点に据えてその配下に“かわいそうな境遇”を勢揃いさせている。
主人公双葉は薄命、娘の安澄はいじめられっ子、探偵さんは亡妻の子連れ、拓海くんは継親から逃げ出したヒッチハイカー、酒巻さんは唖者。
右も左も不遇の免罪符を背負っている人物だらけ。かれらが不幸自慢を繰り広げるさまはモンティパイソンの4人のヨークシャー男も顔負けで、エジプト行きたいを伏線とする人間ピラミッドなんか、全身鳥肌の恥ずかしさだった。が、レビューサイトは軒並み異様な高得点をつけた。

お涙頂戴=感動ポルノが遍在するのは日本人がそれを好きだからなのだろう。映画レビューでは概して「泣けた」が褒め言葉として常用されている。てことは「泣けなかった」はサムズダウン。ばあいによっては、泣けたか泣けなかったかが、良し悪しの判断材料にもなる。

またきょうびレビューやレビュアーがSNS化しているゆえに、SNSの性質上、映画の魅力を伝えるより、映画に泣ける自分の感性をアピールしようと考える。ならば「良かった」よりも「泣けた」のほうが効果的。自己主張がレビューの主目的になったことで「泣けた」が合意・不合意のキーワードと化した。すなわち「泣けた」とは映画の感想ではなく、レビューの読み手に宛てた共感促進の会釈。そこへいいねをすることで挨拶が成り立つ。

とうぜんだが誰が何を見て泣こうと当人の勝手である。
VODを見てサクッと泣いて眠りに就くのは消費生活上身近なストレス発散方法でもある。
ただし、泣けたか泣けなかったかが映画の判断材料になってしまっているのなら、泣けた発言は、寄るか去るかの他人様の判断材料にもなりえる。
つまり、泣けたとの批評に寄ってくる人々もいるが、同時に「へえ、これに泣けちゃうんだ」と去る人も生じさせる──という話。

で、湯を沸かすほどの熱い愛に並んだ高評価だらけレビューをながめたとき、わたしは強烈な疎外感を感じたのだった。
泣けた泣けた泣けた泣けた泣けた泣けた泣けた泣けた泣けた泣けたが居並ぶその渦中へ「爆笑しました」で突撃するのは気が引けたから。が、「朗報!この国フランダースの犬の最終回で天下取れるぞ!」とは言いたい。

お涙頂戴=感動ポルノの主目的は人とお金を集めることだと思っている。プペルや募金テレビ番組がこの手法を使っているが、人とお金を集める手法を使って人とお金を集めているだけのこと。ちっともわるくない。ただ感動ポルノが常勝するならばまっとうな映画/ドラマが霞んでしまうのではないか──とは思う。

号泣したものを挙げろのお題が「え、あれに泣いたの?」になっていないだろうかという皮肉な提議をしてみた。