津次郎

映画の感想+ブログ

古典 リトル・マーメイド (1989年製作の映画)

3.7

実写版リトル・マーメイドのキャスティングが論争になっているので見たくなった。
論争がなければスルーしてしまう映画だが俗物なので論争になった映画は見たくなる。
ところが実写版リトル・マーメイドはDisney+になかった。

論争の是非を確かめたかったが映画館へ行くほどではない。
おっさんがひとりでリトル・マーメイドを見に行くのもヘンだと思うし。知らないけど。

VODにきたら見るとしてとりあえずこのアニメ版を見た。

大人が見てもいいのだろうが大人向けではなかった。たとえば宮崎駿や新海誠だと大人も子供も楽しめて、子供なら子供なりに、大人なら深読みして含味することもできる。

リトル・マーメイドは単純なシンデレラストーリーで深意が秘匿されているわけではない。もちろんそれがダメと言いたいわけではない。子供に自由な生き方を選ばせるべきだ──という大人への庭訓もあった。Gレートのディズニーアニメとして必要充分だった。

実写版の論争原因は主人公アリエル役に黒人が抜擢されたこと。それへの疑問視と、疑問視することが差別にあたるとされ論争が論争を呼んだ。

アニメを見たところアリエルの肌は黒人の色ではなかった。外光によって変わるが明るめの褐色のときがもっとも多く自然光なところではいわゆる肌色だった。

顔立ちはコケイジャンも混じったポリネシアという感じ。うまく人種特定を避けた顔立ちだが黒人ではなかった。そして長く豊かな赤い髪が特長だった。

確かにこのキャラクターをドレッドヘアの黒人にあてたら論争になるだろう。

ところでアニメや漫画を実写化したときの原画との違いは、この地球上で日本人がもっとも経験しているジレンマである。日本ほどアニメ・漫画が盛んな国はほかに二つとないからだ。

2019年にフランス人の俳優兼監督フィリップ・ラショーが北条司の漫画(アニメ)のシティーハンターを映画化した。

自身やフランスの俳優が出演するれっきとしたフランス映画である。

これが日本で大受けした。

なんなら日本のアニメ・漫画の実写化史上最高の成功例といっていいくらいの高評価だった。

その最も大きな勝因は北条司の八頭身キャラクターを八頭身の外国人が演じているからだった。北条司が描く日本人離れした女性の身体つきも外国人が演じることで補完されるわけである。単純なことだがそれがいちばん大きかったと思う。

わたしたち日本人の多くはちんまい体型をしており大谷選手のような人は稀だ。だがアニメや漫画で人物はスラリと描かれるのが常だ。その結果冴羽りょうを上川隆也が演じるような矛盾(というか哀愁)が生じてしまうわけである。

これが日本のアニメ漫画ファンが実写化のたびに経験する齟齬である。そりゃ、きれいに描かれた絵を現実に置き換えたら悲鳴は避けられない。加工し忘れた動画配信者と考えたら分かり易かろう。

ただしリトル・マーメイド実写版はその齟齬に「まさかそれをディズニーがやるとは思わなかった」が加算されて絶叫へ発展した。
これは単に原画と違うということに尽きる話だったが、元アニメ(本作)への忠信の量や桁が巨大ゆえ、差別のないところに差別を発生させるのが好きなリベラルを巻き込んで論争へ発展してしまった。

日本の実写化がしょぼいのはもはや風物詩であって、よっぽどコアなファンでなければ驚きはしない。また絵との齟齬を叫べば叫ぶほど日本人は自らの体型を卑下することにもなりかねない。

しかし有り余るほどの候補者がいる超巨大資本ディズニーがなぜわざわざ・・・。
否定派にとってそれは世界中の美しい良妻から求婚されたに違いないヘンリーがよりにもよってメーガンを選んじまった──みたいなものだろう。

余談だがSNSに接していると世の中はディズニーランド大好き人間の集まりのように見えてしまうがわたしはディズニーランドへ行ったことがなく行きたいと思ったこともない。タダでもお金を出されても行きたいと思わない。むろん今やおっさんなのでおっさんがディズニーランドへ生きたくないと言うのは普通かもしれないが若い時から行きたいとは思わなかった。それがいいとかわるいとかではなく、人と違ってかっこいいだろおれ──でもなく、世の中にはディズニーランドみたいなところへ行きたくないタイプの人間もけっこう生きているのではないか──と思う。巷のリトル・マーメイドへの思い入れの大きさに触れて逆にそれを言ってみたくなった。個人的にはアリエルを貝殻をつけた武田久美子が演じても気にならない。w。