津次郎

映画の感想+ブログ

続編のつらさ 蜘蛛の巣を払う女 (2018年製作の映画)

蜘蛛の巣を払う女

3.4

imdb6.1、RottenTomatoes38%と35%。

なぜこれが低いのかという話をしたい。
続編の公理に組み伏せられているというのはある。1というかThe Girl with the Dragon Tattoo(2011)は御大デヴィッドフィンチャーで予算も倍以上、興行成績はどの地域ベースでも本作の10倍だった。
ただしStieg Larssonの小説もノオミラパスのドラマもフィンチャーの1作目も知らずにこれを見たらそんなに悪い印象をもたないはずだ。よってcons側に立脚するのは原作と比較した場合──ということになると思う。

単純化した概説になるがミレニアムは猟奇クライムサスペンスである。セブンやゾディアックみたいな話だ。そもそもだからフィンチャーに気に入られたわけで。だが本作は猟奇の値が抜け落ちてミッションインポッシブル風のスパイアクションになっている。むろんミッションインポッシブル風のスパイアクションであること自体に問題はないが神髄は別物なので酷評に落ちた。

クレアフォイのリスベットはしびれるかっこよさだったがStieg Larssonが書いたリスベット像は“へんな女”or“変わった女”という風体だった。外観だけでなく心を病み社会に敵愾心を燃やしている。だからノオミラパスや眉なしのルーニーマーラを充てたのだったが、それが本作ではブラックウィドウみたいなアクションヒロインになってしまっている。再度言うが単発で見たらそれは悪くない。が、作家が創造したドラゴンタトゥーの女ではなかった。

リスベットは後見人の庇護下にある社会的弱者だったが、本作ではどこでも侵入でき、なんでも操れるハッカーでありマーシャルアーツの達人であり超絶ライディングテクニックのバイカーでもある。ほぼイーサンハントと言ってよかった。批評家たちもことごとくそういう差違に言及しているが、区別することで楽しめる。

監督はDon't Breatheで名を馳せたFede Álvarez。すごく重荷だったんじゃないかと思う。誰だってデヴィッドフィンチャーからバトンを渡されたくない。が、同時に武者震いも感じられた。
エイリアン好きならご存じと思うがエイリアンが2になったとき“こんどは戦争だ”になって別物に変わったが受け容れられ愛された。
英語で言うならブラッシュアップ、四字熟語で言うなら換骨奪胎、ゴジラがシンゴジラになったような、権威になっているものをいったん壊して作り変える創作理念である。
結果、かならずしも受け容れられたとは言えないが、この映画もオーソリティーであるフィンチャーとは別物にするけど俺は俺で頑張るよ──という意気込みは感じられた。

クレアフォイがよかった。服もいいし動きもいいし暗いものを背負っている暗い感じもいいし大きな目に哀感が宿るのもいいし髪を立ててもよかった。ふざけ倒すならアベンジャーズの一員へ組み入れてもいいと思った。

ここでなく前作The Girl with the Dragon Tattooで言うべきことかもしれないがついでにミレニアムが言っている性について話したい。
リスベットにはすごく性欲がありいつも酒場で相手を拾ってくるし前作でダニエルグレイグが演じたミカエルともあっさりやってしまうし、いわば奔放な両刀の“タチ”といえる。だけどリスベットは嫌いな人とはやりたくない。フィンチャーを見た人なら解ると思うが「人は嫌いな人とやりたくない」という根源的な提唱がミレニアムにはある。そのことと猟奇的な暴行への憎悪が同居していることでStieg Larssonの死後世界的ベストセラーになったのだ──と個人的にはみている。とうぜんそれだけじゃないだろうが、リスベットが自分自身の性欲を追求する自我と、悪意によって凌辱や惨殺される弱性の惨禍、それに対する憎悪がミレニアムを狂おしい物語にしているのは間違いない。

『Larssonは彼が15歳のときに起こったという事件について語った。3人の男がリスベットという知人を集団レイプするのを傍観していたのだ。数日後、彼女を助けることができなかった罪悪感にさいなまれた彼は、彼女に許しを請うたが、彼女はそれを認めなかった。この事件はその後何年も彼を苦しめ、レイプ被害者でもあるリスベットというキャラクターを創作するきっかけにもなったという。』
(Wikipedia「The Girl with the Dragon Tattoo」より)

(Stieg Larssonはこの話を3人の傍観者のひとりが自分自身であったかのように記憶していた──とのことだが、一般的にミレニアムに影響を与えたのは1984年に起きたMurder of Catrine da Costaだと言われている。(Stieg Larssonは2004年に亡くなっているために作品のバックグラウンド等に未解明なところがある。))

猟奇が抜け落ちている──とは言ったが本作ではリスベットの姉カミラと父親との不適切な関係が示唆されている。それはフリッツル事件のような禁忌ゆえにおぼろげな表現しかされないが、Stieg Larssonが言いたいのは力づくで人の嫌がることをすることへの憎悪でありその憎悪を龍の入れ墨をした女のキャラクターに託したのだと思う。