津次郎

映画の感想+ブログ

ルメット版を思い出しながら オリエント急行殺人事件 (2017年製作の映画)

オリエント急行殺人事件 (吹替版)

3.3
むかし、一般家庭では、映画は、テレビで吹き替えを見るのが普通だったと思う。
シネスコを3:4にトリミングされ、CMにぶつぎりされ、放送枠の尺に収められ、終わると解説がつく映画、それが映画だった。

映画を見ない人でも、淀川長治と水野晴郎の物真似はできた。私はもうすこし高度な荻昌弘の物真似もできた。情報がなかった当時は、その解説を熱心に聞いたものだ。

テレビで見た映画体験として、もっとも印象に残っているのがルメット版のオリエント急行殺人事件だった。
なにしろスター総出演。
Rウィドマーク、Sコネリー、Jビゼット、Aパーキンス、マイケルヨーク、Vレッドグレイヴ。当時、往年のスターだったJギールグッド、ローレンバコールやイングリッドバーグマンまでもが出演していて、名匠が監督をつとめる。

文庫のハリウッド名鑑を手垢にまみれるほど愛読していた私には、それがどれほど贅沢な配役かがわかった。ありえないほど豪華、真のオールスターキャスト。
今で言うならニューイヤーズイヴとかバレンタインデーみたいな有名どころの競演映画だが、ルメットのオリエント急行は、所謂バイプレーヤーがひとりもいない空前絶後の濃密さだった。スター勢揃いに加え、米英に欧をプラスし呉越同舟。バラエティの豊かさもそなえていた。

華麗さと同時に文学性もあった。
テレビでオリエント急行殺人事件を見た当時、アガサクリスティの小説は人気があった。
推理小説ブームが中学生だった私たちにも波及しており、定評だったクリスティの「そして誰もいなくなった」はクラスのほとんどが読んでいた。
きょうび、クラスじゅうが一個の小説を読了していることなどあり得ないが、当時はまだ十人が一色の時代だった。
すなわちこの映画は、クリスティのファンを取り込む広汎な娯楽性を備えていた、と同時に、多くの人々にとって『原作を読んだことのある映画』の原体験でもあった──と思う。

あの晩の日曜洋画劇場を(あるいは水曜か金曜だったかもしれないが)私ほど心待ちにしていた中学生がいただろうか。

親たちは時として裸がでてくる洋画を子供が見ることを警戒していたし、ドリフの全員集合が終わったら、加藤茶の訓示にしたがって、歯磨きや宿題や就寝を課していた家庭もあった。
なにしろ映画は21時から始まる。

私はそれをVHSに録画した。放映中、ブラウン管の前でリモコンを握ったまま動かなかった。CMに入るとき、録画一時停止ボタンを押すためだった。CMが終わったとき、もう一度押して一時停止解除するためだった。微妙に遅れたりすると「ああ」と小さく悲鳴をあげた。そんなことを何度やったことだろうか。

ルメットのオリエント急行殺人事件は、批評も興行も成功し、そのあとナイル川とか地中海とか、~殺人事件のタイトルで亜流がつくられたが、柳の下の泥鰌。オリエント急行が無二の金字塔だった。

とはいえ、思いの詰まった映画のリメイクが期待通りとは限らない。それがレジェンダリーであれば復刻することに疑念も生じる。森田芳光の椿三十郎はなんだったのか。ブレードランナーに続編が必要なのか。タンクトップでうろつけばエイリアンになるのか……。
もっとも一介の庶民ゆえ、疑念は見ることの楽しみにつながっている。不可侵なレジェンドこそ、再版権は大歓迎である。

一般に、エルキュールポアロといえばDavid Suchetだが、私のなかではアルバートフィニーがポアロである。
スーシェのような上品な紳士ではなく、ましてケネスブラナーの男臭さは逸脱でしかない。おどおどしてお人好しで、享楽と美食に生きている肥満の隠居みたいなのに、ひとたび謎解きとなれば、すべてを見聞きし憶え、分析し、手繰っていくと犯人がいる。そんな、外面と内面にギャップを据えたのが、ルメットが創造したポアロだった。
その原体験の像を譲ることができないままだったがゆえに、まずケネスブラナーポアロを乗り越えなければならなかった。
そもそもこの面妖なポアロ髭はなんなんだろうか。
大きい。大きすぎる。

いや、ポアロばかりではない。乗客全員。
ヨーロッパを意識して、ルメットが腐心した個性鮮やかなキャストが、大陸横断鉄道かと見まがうほどのヤンキー色に染まっている。デフォーにファイファーに、みんなフリスコで乗った感じの人たち。トントがラチェットになっただけで、これぜったいローンレンジャーの列車内だよね、みたいな。

レビューしてませんが、出来は悪くありません。個人的には、ルメット版と比較して、心中勝手に毒づきながらの2時間が、本当に楽しかった、懐かしかった。