津次郎

映画の感想+ブログ

ふつうにあり得る話 イングリッド ネットストーカーの女 (2017年製作の映画)

イングリッド ─ネットストーカーの女─(字幕版)

3.3
テラハを見ていたとき、山ちゃんの扱き下ろしに、いっしょになって笑っていた。
そうでないひとがいるなら、高潔といっていい。
たいしたもんだ。

じぶんは低俗な番組を好きな低俗なにんげんである。

さらに、ネット上の批判に、ヤラセを見て喜んでいるバカども、というのがあった。
するとじぶんは、テラハがヤラセだとは、気づかなかったバカのひとりでもある。

すこしも気づけなかった。

映画でリアリティをうんぬんすることがある。
たとえばアブデラティフケシシュのアデルは、まるで演技の気配がない。
邦画でいえば、是枝監督、河瀬監督は、演技気配のない描写がうまい。

テラハには演技気配がない。
まるでない。
それなら、カメラのこっち側には、ケシュシュ・是枝・河瀬級の監督が、演技指導しているんだろうか?
しかも、演技素人の人たちを?

理屈に合わない。

筋に多少の寓意が介入するとしても、かれらは、ある程度というより、ほぼ全般、自然に振る舞っているはずである。

でなければ、理屈に合わない。なぜ世の映画監督は、リアリティ演出が、テラハにすら及ばないのか──ということになるからだ。

ところで、問題は、根本的に、じぶんとテレビにでている誰某とは、なんの関係もない、ということに尽きる。

個人的な話だが老齢な母は、ボケ防止の目的でスマホを使っている。
いまでは、万年ガラケーのわたしよりずっとスマホにくわしい。

足腰のよわい母を、母の好きなコンサートに送り迎えすることがたびたびある。
その車中で、母は、そのアーチストのSNSに「コンサートを素敵でした」と、コメントしようとする。
わたしは毎度言う。
「やめろよ。知り合いじゃあるまいし」

いまどき、芸能人のSNSに、コメントをする行為に際して「やめろよ。知り合いじゃあるまいし」と注意されるシチュエーションは、有り得ない。もとより母が行くコンサートはもっとずっとローカルなアーチストである。

ただし、問題の根幹は──誹謗中傷の素因は、そこに尽きる。

芸能人が身近になった。
日常がオンラインになった。

そこで、芸能人に直コメントをする行為が日常化した。
じっさい芸能人は、それに励まされる、こともある。のかもしれない。

ただし、わたしは「やめろよ。知り合いじゃあるまいし」と思っている。
有名人であろうとローカルなアーチストであろうと。

たわむれに、他愛ないコメントするのはいい。
だけどもし、根幹に、「知り合いじゃないし、じぶんとはぜんぜん無関係なひとだ」の気持ちがないなら、あぶない人だと思う。

芸能人の不倫でもそうだ。
いったいなぜ一般庶民であるわれわれがその判事になれるだろう。
ぜんぜん関係ない。
まったく無縁である。

テラハがヤラセだとは気づけなかった。
だけど、番組が、またその出演者が、じぶんとはぜんぜん関係のない人たち──だということは、百も承知だった。

番組が庶民を煽っていたとしても、それはパブリシティの方法論だ。
そもそも、そんなことは、言うまでもないことだ。

くわえて、それがじぶんと何の関係もないとき、それがヤラセかヤラセでないかは、一ミクロンも重要ではない。何の関係もないんだから、どっちでもいい。

これらは、昔は国民全員が知っていた理屈である。とはいえ、昔のひとが利口だったわけではない。いまの老齢者や中高年もたいがいに昔をおぼえていない。

コンテンツに腹を立てていいときがあるとすれば、それが、じぶんの価値基準に則して、面白くないときだけだ。そんなときでも、とうぜん、その創作物は、じぶんとはなんの関係もない。

むかしの少女アニメ、ハイジやキャンデイやアンやポリアンナには、主人公の仇敵や厄災となる人物がいた。その放映があると、テレビ局へ、全国の少年少女から、投書があったそうだ。「セーラにもっとひとにやさしくするよう言ってあげてください」とかなんとか。である。番組製作者は「かわいいねえ」と思いながら目を細めてそれらを眺めた。はずである。

共感しようと感動しようと、または忌避しようと嫌悪しようと、コンテンツとじぶんは、なんの関係もない。

そんなことが描かれている映画。たぶん。