津次郎

映画の感想+ブログ

ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語(2019年製作の映画)

4.0
映画の理解は、原作を読んだのか、読んでないのか──ではなく、総合的な経験則に依存するものだ──と思う。
経験則とは、経験そのものと、小説・映画・音楽・芸能一般などの媒体から吸収されたもの、両方を含む。

読んだことと、読まなかったことは、巡り合わせの気まぐれ、に過ぎない。
そして媒体から吸収された経験の大きさには、人それぞれ、浅深がある。
知之者不如好之者、好之者不如楽之者。
(それを知っている人は、それを好きな人にはかなわない。それを好きな人は、それを楽しむ人にはかなわない。)

文芸が、日常と有機的なつながりを持っているなら、若草物語を読んでいないことは、映画鑑賞のさまたげにはならない。

奔放な女性がいて、社会と家族のなかで成長する。──そのような普遍的な物語は、形や品を変えて、われわれの接するメディアのなかに遍在しているからだ。
姉妹をモラトリアム方向へ進展させたとき、俺はまだ本気出してないだけですら若草物語から地続き──だと思う。

おそらく監督が若草物語を映画化した意図は、その再構築にある。
奔放な女性がいて、社会と家族のなかで成長する。──監督はその物語に人に訴える力をみた。そこで人物に現代アレンジをした。さながら19世紀の風俗を背景にしたレディバードを見ている気がした。

監督は若草物語を楽しみ、自在に翻案し、老若と男女と読未読を問わずに訴えるものをつくりあげた。
初めて触れる観衆も念頭に置いた、というより、初めて触れる観衆をむしろ主ターゲットに据えた──はずである。

だから若草物語を読んでいないことに弁解の必要はない。
そもそも、いかなる映画であれ、原作や素地を知らないことを、前置きしなければならない──理由はない。映画は観衆を差別しない。

若草物語を読んだことがあるか、ないか──というより、文芸がわれわれの日常と、どれだけ結びついているかが見識になる。

そして、わたしたちが触れるすぐれた媒体が、かならず「門」あるいは「きっかけ」の要素を持っているのと同様に、興味をもったなら、オルコットの若草物語を読んでみたらいかが──と誘っている。

知っていることと知らないことには差がない。知り得たことにたいして興味をもつこと。知ったあとの浅深によって差が生じる。
映画はその博雅を呈示している。あらゆるクリエイターが標榜する「きっかけに興味をもってくれたら幸いです」と同じことを言っている。

その造詣に気づいて、監督の背景と経験則に思いをはせる。
なにが大切だと考えているかを想像してみる。

すると困惑してくる。
この識字率百パーセントの国は、監督が培ってきたような風雅を持ち合わせているのだろうか。
レディバード中産階級より低層な家庭の設定だが、冒頭で母子はスタインベック怒りの葡萄のオーディオブックを聞いて涙を流している。──のである。

わからないことはつまらない。
興味を拒むなら文化がいらない。
いい映画をつくってもらわないといけない。
そうしてもらわないとその国と人がばかに見える。

んなこと言える権利も資格も立場もないが、思った。
反面とはいえ、この映画の感想です。