津次郎

映画の感想+ブログ

ヘルプ 〜心がつなぐストーリー〜(2011年製作の映画)

4.5
ミシシッピーのつづりにはiが四つある。アランパーカーの映画でi=eyeが四つあるのに見えない──と南部を皮肉ったセリフがあった。のをおぼえている。

アメリカの黒人差別のことを、わたしはよく解っていないと思う。日本に住む日本人がそれを把捉できるとは思わない。マークトウェインすら奴隷制度をうたがっていなかった。そこから60年代へ変遷し、ジムクロウによって規定されているものの、白人の社会には不文律があった。あきらかな差別主義者がいる。おかしいと感じていても、コミュニティを乱さないために迎合している者もいる。表向きはジムクロウに従いながら公民権運動を支持する白人もいただろう。と思う。

しかしその当時の南部ではジムクロウに反撥する態度をとると命の危険がともなう。目がいくつあろうと、盲目にならざるを得ない。──わけである。

スキーターはブリッジクラブの奥様方からすると落伍者なのだが、むしろまっとうな博愛主義者である。この時代なら、婚期を逸しつつある女性なのかもしれないが、現代から見れば、キャリアを目指す快活な女性である。

それは、さながら60年代に紛れ込んでしまった現代女性のように見える。映画も積極的にそう見せようとしている。
陰惨な時代の南部に、時代とズレのある女性が、軽やかに黒人差別を殴打するのが痛快──だからだ。

すなわちスキーターの存在、その博愛と現代性は、この映画の明るさの最大因子である。
黒人が黒人だけで戦う公民権運動の映画が、かならず持ってしまう、重さや暗さを、The Helpはまったく持っていない。

やはりエマストーンがじょうずだと思った。さばさば感が出ているし、華やかな見た目で気分が晴れる。他の出演者では、オスカーを獲ったオクタヴィアスペンサーはもちろんだと思った。彼女のぎょろ目とはみ出す恰幅と鉄火肌は、ぜったいに映画を暗くしない。また、憎まれ役ながら糞パイを食すブライスダラスハワードとその母シシースペイセクがとても巧かった。

テイトテイラー監督の、その後の仕事を見て、この映画The Helpが糞パイの顛末を描きたかった映画だと思えてきた。これは社会派の映画──とは思えない。原案原作は知らないが、糞パイをコミカルに描いて、同時に啓発と人間ドラマもやってしまおう、としたように見える。のである。これは褒めことばである。

興行も批評も成功したが、監督は商業監督であって、MaやAvaやThe Girl on the Trainには企画をこなす職人手腕は感じても、社会的またはアート的こだわりは感じない。繰り返すがこれはほめ言葉である。The Helpほどの監督が、気どらない大衆指向なのは賛同できる。

毎度の比較論になるが、日本映画を見ていると、大衆指向と職人手腕と商業主義に、親しみを感じるようになる。のである。
日本映画というものが、たいていアートハウスな気取りを呈してしまうからだ。映画監督が気どってしまう、わけである。

日本映画の気取りを嫌悪していると、それが反面教師となって、気取りのない映画に親しみを感じる──に至る。のである。

Maのように古馴染みのオクタヴィアスペンサーを使って、しょうもないサイコホラーをつくってしまうテイトテイラーの筋金入りの大衆性には、むしろ好感が持てる。

それらを見ているとThe Helpだって、初動は社会派な称賛を目指していなかっただろう──と思えた。のである。

しかしThe Helpにはあらがいようのない普遍性があった。それはスキーターを愛した古メイドのコンスタンティンだ。スキーターがまっとうな人間性を持ち得たのは、コンスタンティンによって、生みの親より育ての親のことばどおりの人格形成がなされたから──に他ならない。傑作にならざるを得ない普遍だった。