津次郎

映画の感想+ブログ

溢れでるカタルシス アベンジャーズ/エンドゲーム (2019年製作の映画)

5.0
サノスはほんとにわるいやつだったのでしょうか?
これを見てから、しばしば、それを考えます。

65歳以上人口が最高28.4% 7人に1人が75歳以上(日本経済新聞2019/09/15の見出しより)

この地球でもっとも高齢者比率の高い国はどこか知ってますか?→日本です。
おどろくほど、この問題が考えられている気配を感じないのですが、日本はやがて65歳以上が3割に達します。その先も高齢者割合は増していきます。
理屈や数値を知らなくても、大丈夫です。わたしも社会を語るような玉ではありませんが、日本の姿は簡単に言い表すことができます。
「生まれなくて死なない国」
どうなると思いますか?国が死に絶えるのを抗う対策はあるのでしょうか?

個人的に最良と思える対策は、非倫理で実現不可能かもしれませんが、もういなくなっていいという人に、いなくなれる権利を与えること──です。
いなくなる、とは氏ぬの言い換えです。
でも氏と言ってしまったばあい、人命は尊いという無敵の真理をひきつれてきてしまうので、いなくなるで代替しておりますが、ことさらドライなことを言っているわけではありません。人命は尊いです。よもやそれを否定する理由も、ペシミズムもございません。

ただ、当人が、もういいなら、いいんじゃなかろうか。
当人が、もうじゅうぶん生きたんで、おいとましたい──ならば、させてくれても、いいんじゃなかろうか。
わたしも65くらいで、いなくなってもいいと思う。(そん時になったら生きる気まんまんだったりしてなw)
恍惚とするまえに、病に侵されるまえに、誰かの厄介になるまえに、自分の意志があるときに、いなくなれたら──と思います。

ならじぶんでやりゃいい、と思うかもしれませんが、自○というのは、合法的にいなくなることとぜんぜん違い、生き残ったひとに、多大な迷惑をかけることになる、一種の犯罪です。
そんなことをすりゃ、亡骸を処理するひとがいるだろうし、遺品を引き取らなきゃならんし、密葬をしなきゃならんし、家族たちは身内に自○者がいるひとになるし、自○の方法によっちゃ、わたしのバラバラの肉片を拾い集めなきゃならない役割を負う人だっているかもしれません。氏んでるくせに、とんでもない傲慢さです。
自○なんて、庶民生活レベルで考えてみたとき、どんだけ迷惑か、想像もできないほどのこと──なのです。

だけど、いなくなっていいひとに対して、なんらかの形で、その権利と方法が与えられれば、その志願者はこの国にはおおぜいいるにちがいない。と、わたしは思います。必ずしも絶望が理由だとも思いません。廃業とおなじスタンスでも構わないと思うのです。
責任を果たすまではダメとか、借金あればダメとか、係争中はダメとか、60歳未満はダメとか、60歳以上でもかんぜんに健常ならばダメとか、そういったいろいろと条件をもうけて、つくればいいと思うのです。
おそらく姥捨山しか、高齢化社会がすくわれる道はないと思いますが、とうぜん無理でしょう。

そう考えたとき、サノスは賢者なのです。そもそも、かれは、ゆびをぱっちんしたあと、辺境で自給自足の隠遁生活をおくっていたのです。
つまり、覇権や私利私欲のために石をもとめたわけじゃなく、あちこちの星で、生命が増え、資源が枯渇している問題を解決するために、6個あつめて、ぱちんとやって、人口の半分を灰にしたのです。いなくなった人々は痛みさえ感じませんでした。
厖大な犠牲をはらって、それをやり遂げ、じぶんは贖罪のような孤独な余生をおくっていたのです。

その慈悲のような救世の革命にたいして、アベンジャーズたちは、わざわざ時間をさかのぼって、サノスをたおし、半減した人口を生き返らせてしまう──という愚行をやらかしてくれるのです。
人道主義vs全体主義かもしれませんが、あまりにも、どっちもどっちだったような気がしてなりません。

エンドゲームは喪失と追憶の映画でした。力尽きたスターク。転送したけど戻らなかった老キャプテンアメリカはファルコンにシールドを託し、我が家で妻と踊る幸せなひとときの追憶へ飛んで映画は終わります。
両雄は自分で運命を選びとることができました。
同時にエンドゲームは「老い」の映画でもありました。全員すでにいい年です。もっと若い連中に主要人物をシフトする節目の映画でした。日本代表の真田広之も還暦だったわけでw。