津次郎

映画の感想+ブログ

残酷描写とリアリティ ブルータル・ジャスティス (2018年製作の映画)

ブルータル・ジャスティス(吹替版)

4.0
この監督のデビュー作、Bone Tomahawk(2015)は掠われた人質奪還の西部劇だったのだが、穴居人という未開の食人種族が出てくる。これが度肝をぬくゲテモノだった。

『奴らは獣の腐った血統だ、実の母親を強姦し食っちまう』

とちゅう、見たこともない苛烈な残虐シーンが出てくる。
話じたいはトゥルーグリットに似ている。役者もセリフもキャラクタライズもしっかりしていた。

そして残酷が無類のリアリティを持っていた。

残酷描写。
たとえば日本の「鬼才」がそれをやるばあい、切ったり、刺したり、鋸挽きしたり、血まみれでのたうちまわったり、風呂場で解体したり、肉団子にしてみたり、そういう扇情描写もしくは傷口/患部をもって「残酷」を表現する──わけだが、ご承知のとおり、じっさいそれに「残酷」を感じるか──といえば、そんなことはない。

それらは「残酷だろ?」のドヤり、もしくはグロテスクを提供しているのであって、けっして残酷ではない。──わけである。

S. Craig Zahler監督がみせた残酷は、そのテの子供騙ではなかった。

Bone Tomahawkでは、穴居人が、とらえた捕虜の股間から斧をふるって人間を真っ二つにするのだが、それを、すごくあっさりやる。見せ場にせず効果にもしない。ドンと振り下ろして、内臓がどばどば落ちる。すぐカットをかえる。
それは残酷だった。

決闘や襲撃や死が、あっけない。
シェリフたちは穴居人の住処まで、長い道程を探訪するが、着いて囚われるまで、ほんのわずか。矢や斧が飛んできて、パタパタと決着する。
それはリアルだった。

すなわち、対立を設定し、舞台を設定しておきながら、そこでいささかも劇的ではない劇をやる──わけである。

うまく言い得ているかわからないが、通常の演出では、善悪があって、舞台があるなら、そこで劇的なことをやって、見せ場をつくる──わけである。
ところが、残酷や決戦が、見せ場にも効果にもなっていないゆえに、かえって、すさまじいリアリティと非情が見えてくる。

台詞も練られていた。
禁欲的でクールで死を畏れず、しかも笑えた。

Brawl in Cell Block 99(2017)は未見だが、本作Dragged Across Concreteも、そのスタイルは一貫している。残酷、ストイック、クール。Jennifer Carpenterがザクロみたいに撃ちぬかれる。情け容赦なしが青天井にパワーアップしていた。
ただしあくまで残酷は必然のなかで使われる。それを売りにしているわけでない。

動かず定点でとらえるカメラもいい。粒立ちがよくフレーミングもばしっと決まる。
張り込み中の車中でヴィンスヴォーンが卵サンドを食べている。となりでメルギブソンが押し黙って前を見つめている。苦味走った強面で。それだけをひたすら回している。絵は決まるが、どこか可笑しい。その理由をせつめいできないが、監督は死ぬほどセンスがいい。

S. Craig Zahler。滅多にいない優れたアクション作家だと思う。