津次郎

映画の感想+ブログ

引用探し 博士と狂人 (2018年製作の映画)

4.5
原作はイギリスの作家、サイモン・ウィンチェスターの1998年の著作「博士と狂人:世界最高の辞書オックスフォード英語辞典の誕生秘話」。

で、ウィンチェスターのウィキペディアに、以下の一文を見つけた。

『1998年にメル・ギブソンがこの作品の映画化権を買い取り、20数年を経て映画化された。』
(サイモン・ウィンチェスターのウィキペディアより)

1998年といえば、まだギブソンはリーサルウェポン(の4つ目)をやっていた。

なんか、すごく打たれた。ほんものの映画人は、小説に感銘をうけると、いつか映画化することを夢見て、買い取る。そして何年かかっても、ほんとに映画化する。

映画の能書きに「構想ウン年」が安易に使われることがあるが、野望も宿心もない奴が、使っちゃいけない。つくづくそう思った。

英語辞書の編纂(へんさん)の話。
へんさんを調べたら『いろいろの原稿や材料を集めて整理し、書物の内容をつくりあげること。編集。』とあった。

映画では「引用」探しが描かれている。

引用=そのことばが使われている文献をさがす作業。それも世紀毎の文献をさがして、意味の変遷もしらべあげる。
マレー博士(ギブソン)はそれを一般から公募するが、容易に集まらない。しかも編纂人は博士をふくめ数人しかいない。

ところで、じぶんは、いままで映画レビューをしてきたが、そのなかで、ひんぱんにウィキペディアから引用してきた。
このレビューでもやっている。
ウィキペディアだとパッと3秒でその言葉にたどりつく。
パッと3秒でコピペできる。(当然ウィキからの引用であることは明記しています。)

ウィキを使うと、なんも知らなくても、なんか、いっちょまえに、わかっているような体裁のレビューができる。ウィキペディアさまさま、である。

が、1870年代。ウィキペディアなんかなかった。インターネットもなかった。

紙媒体である書物からの引用は、博覧強記のなせるわざである。広く厖大な読書量。──だけでなく「この言葉はあの小説のあそこで使われていたぞ!」という記憶と閃き(ひらめき)の為せるわざである。

その作業に意外な人物からの佑助を得る。

ギブソンは気負っていた。監督のFarhad Safinia(P.B. Shemran)はアポカリプト(2006)の共同執筆者である。監督は初で、おそらくギブソンは自分で演じながらも指図をだせる旧知にチェアマンを任せたかった──のだろう。
配役も本気。ショーンペン。Natalie Dormerと名優Eddie MarsanやSteve Coogan。
20年かけて揃えた布陣だった。

編纂作業には体制との攻防がある。
あわせてマイナー博士(ペン)の贖罪が描かれる。強迫性障害によって良人をころした彼は、未亡人を経済援助し許しも請うが、結局彼女に免罪されることが我慢できない。──許されることが許せない。
淡い岡惚れを畏れた彼はみずからを去勢し、自我をうしなう危険な荒治療にも承諾する。強烈な自己処罰感情。むずかしい役をこなしたのはショーンペンだったからこそ──だろう。

辞書は、どんどん新しくなる言葉とのせめぎ合いである。その描写が映画中にもある。Steve Cooganが演じた共同編集者が、マレー博士に、炊事場の若い下女たちの話し言葉を聞かせる場面だ。

むろん映画中は昔だから昔のことばだが、ひとびとの使う言葉が刻々と変わりゆくこと──は昔も今も、ずっと常につきまとう問題である。それを拾うのが辞書の役目だと、この映画は言っている。

じぶんは無教育な一般庶民だが、けっこう文を書くので、きらいな日本語がある。
たとえばらぬきがだいきらい。ばかにしかみえない。だけど、辞書となれば、個人嗜好を言ってられない。らぬきが一般化するなら、それも立派な新しい日本語とみなさなければならない。そうやって変わりゆく時代(時間)と闘いながら、AからZまで一語一語、やっていく──わけである。

その──完成までに70年かかった、気の遠くなるような作業の端緒をマナー/マイナーの両博士がやったんだ──と映画は伝えている。

(紙媒体の)辞書をひかなくなって、もうどれくらい経つだろう。

一生涯かかっても使わない言葉は山ほどあるだろうがじぶんなりにいろんな言葉を使って文を書きたいとは思う。
感慨深い映画だった。