津次郎

映画の感想+ブログ

無欲な歌声 コーダ あいのうた (2021年製作の映画)

コーダ あいのうた(字幕版)

4.0
きょうび、ネットに帰属するわたしたちがいちばん腐心していること──といえば、自然さである。

ほんとは、ぜんぶ作為でやっている。

たとえば美容系インフルエンサーが一日をつづった動画は、寝室にカメラをセットして、いかにも起きました体で起きる。そこから一度もカメラ目線することなく、普段やっていないような朝食をつくりメイク・身支度をして仕事へでかける。帰宅した体でマンションの扉が開き、普段やってないような夜食をつくり、バスタイムからお肌のお手入れなどを見せて就寝する。・・・。
平素を装っているが、まちがいなく総てテイクを見て、なんなら何度か撮り直している。

自然にやっていないのに自然なように見せるのが、配信者の前提にある。だからこそ天然をもっている人がウケる。たとえホントの天然でなくても、天然が自然にみえる人がウケる。

論争の際、汲々と反駁したときなどに「おや必死だね」といなされることがある。必死はよく使われる嘲弄の表現であり、必死さは見えてしまうと見苦しいクールorスマートの反義語である。ところがYoutube、Tiktok、SNS、ブログetc、それらのオーナーで、PVや再生をかせごうと必死でない人間など一人も存在しない。

たんなる偶然やふとしたはずみでネットに動画や文をあげることはない。すでに成功した者からじぶんのような無名の者に至るまで、誰もが作為と承認欲をもって投稿するわけである。
だからこそ、どうしても欲しいのが、それをなんの気もなしにやっているのだという自然さである。「おれはなにも期待してはいないよ」というナチュラルor無欲な空気感である。

映画も登場人物の生活環境を自然に見せたい。

コーダは漁師一家の底引き網漁からはじまる。
父と兄とルビー(エミリア・ジョーンズ)が網にかかった魚を選別している。かれらの様子も船もロケーションもそれを日常としている気配=自然さが際立っていた。

率直なところ、リメイクのコーダが海外で絶賛されているのを知ったとき、権利を買い取ったとはいえ、元映画(La Famille Bélier、2014)よりも大きな栄誉に浴しているのが、なんとなく不可解だった。日本には二番煎じという言葉がある。

おそらくコーダはリメイクを二番煎じととらえられないよう、徹底的に、環境や人物のつくり込みをしたはずだった。自然さに腐心したはずだった。その意気込みが冒頭から伝わってきたわけである。

ルビーはちいさな体躯にぶかぶかのマリンフォードをはき、それがルーチンのように高らかに歌っていた。そのはじまりで、彼女が歌がうまいことや生活環境、塵塚の鶴orとびが鷹を生む──物語の概観を察知することができた。自然さに説得力があった。

また、母ジャッキーを演じた聴覚障害者のマーリー・マトリンはシアン・ヘダー監督のオファーにたいして、相手役となる夫をじっさいのろう役者から選ばなければ出演しないと突っぱねたそうだ。
その要求が飲まれTroy Kotsurがえらばれ(男性の)ろう者として初めてオスカーを獲った。
つくり込まれた自然さとほんとのろう者をつかったリアリティ。──外堀から再構築している気配がリメイクの枠を超え、海外での絶賛は頷けるものだった。

映画の核心は歌の才能に自覚のないルビーの自然さだと思う。
前述したとおり、自然さの対義語は作為である。もしルビーが歌がうまいことを自覚し、自己顕示欲をむきだしにしてしまえば、映画の魅力は半減どころか、失われてしまったに違いない。

思春期にある自信のない少女、漁師や荒波の似合わない少女、家族4人中ただひとりの健常者、その境遇がコーダを青天井にドラマチックにしている。琴線をくすぐられた。

漁師の娘事情を描きながら、しっかりコメディもしつつ、弱者(=家族の障がいや家計の苦しさ)をひけらかすことなく、きれいなシンデレラ曲線が描かれる。──もっとも観衆寄りの映画祭サンダンスでの観客賞は当然だろう。

逆境を跳ね返すうつくしい多幸感の映画。
ルビーの夢に寄り添った濃密な2時間だった。

(なお、マイルズくん目当てに合唱部入るときガーティが、
If you start, you know, beatboxing or doing that cup clapping thing, we’re done, yeah?(ボイパとかCupsとかはじめたら絶交だかんね)と釘差したところ、ツボりました。)

余談になるが、かえりみて、成功する人とは、その能力に無自覚なものではなかろうか。
バズりのような得体の知れない名利のために、わたしたちはネット上へ文や動画をあげることがある。
その単なる作為を、野心とか野望のようなものだと勘違いしているふしがある。

しかし夢を追っている人は、作為的ではない。
コーダがかぎりなくさわやかに見えるのは、承認欲まみれの現代人から見てルビーの自然さがうらやましいから──なのかもしれない。なんてね。