津次郎

映画の感想+ブログ

わかりたかった ファイト・クラブ (1999年製作の映画)

ファイト・クラブ (吹替版)

3.0
批評家の評価も高く、世間の評判も良い映画が、じぶんにはぜんぜんだった──ということが、たびたびある。

まえにレビューしたユージュアルサスペクツやアメリカンビューティーはトマトメーターもImdbも高いがわたしは面白いと思わなかった。

ところが映画好きは内懐に葛藤を持っており「じぶんにはぜんぜんだった」としても「じぶんにはぜんぜんだった」とは明かしたくない映画──というものがあったりする。

たとえばガイリッチー。

玄人っぽさと男らしさに溢れたガイリッチーの初期作群は映画好きとしては「だいすき」と寄せておきたいところだ。

が、わたしにはロックストック~もスナッチも、あんまりピンと来なかった。

にもかかわらず、昔書いたレビューでは「じぶんにはぜんぜんだった」とは言わず、ミッキーのパイキーなまりがうんたらかんたらと、ガイリッチーの面白さがわかるふりをしていた──のだった。

とはいえ年をとるほどに、中二病がぬけて、すきじゃないものをムリしてすきだとは言わなくなっていく。

もう趣味の良さをアピールしたり、レビューごときで“ええかっこしい”する年じゃない。

──というわけで明かすがわたしにはファイトクラブの面白さがさっぱりわからない。

むかしからわからなかった。

なにしろ、1999年からこんにちまでに、わたしはファイトクラブをかれこれ10回以上、見はじめている。見た──のではなく見はじめた──のだ。ぜんぶ途中でやめた。なぜか──おもしろくないからだ。

ではなぜ10回以上も見はじめたのか──と言えば、とうぜん、これが映画史上の傑作とされているからだ。

IMDB8.8。RottenTomatoes79%と96%。(批評家よりも)とりわけ一般観衆から圧倒的に支持されている。とくにアメリカ人はファイトクラブが大大大好きだ。

だから映画ファンとして寄せようとして=なんとか面白さを理解しようとして、10回以上見はじめたのだ。
見るたび挫折した。
なんなんだこのつまんなさは???と感じる一方で、ファイトクラブの面白さがわからない俺のセンスのわるさはなんなんだ???と二重の鬱憤をかかえながら毎回毎回いやな気分で途中下車してきた──のだった。

映画好きなら誰でもじぶんのポジションを持っている。ポジションとは謂わば「この面白さがわかんないのはダサい」という小さな矜持のことだ。

もちろん「この面白さがわかんないのはダサい」と直截に言うことはないが、じぶんとは異なる意見を消極的に揶揄する「びっくりしましたコメント」はよく見かけるはずだ。

映画レビューでもヤフコメでもあるいは他のコメント欄でも、定番な構文として「好評(or悪評)が多くてびっくりしました」とはじまるやつがある。
投稿主の本音は「おまえらぜんぜんわかってなくて草」だが、そう言ってしまうと攻撃的なので、攻撃性を「びっくりした」にとどめておく──わけである。

つまり「好評が多くてびっくりしました」と言われてしまうと、好評コメントをしたわたし/あなたは、ほんの僅かにせよじぶんの好評に懐疑心がめばえる──わけである。なにしろびっくりされるほどのことなわけだから。

もちろんじっさいには懐疑なんぞしない。そもそも「びっくりしましたコメント」なわけだから。だいたいコメント主はほんとうにびっくりしているわけではない。びっくりした──にありったけの皮肉を込めているだけであって、勝手にびっくりしていてくださいというかんじなのだが、それが謂わば“ポジション”である。

どれほど控えめでもポジションを持たない人はいない。そして同じポジションどうしの多寡が趣味のいい映画とか、おさえておくべき俳優とか、いまもっとも旬な監督とか、そういった潮流をかたちづくる。

ガイリッチーのロックストック~やスナッチ、あるいはファイトクラブは絶対多数の“ポジション”に支えられた映画──というわけ。

そういう映画を「おもしろくない」なんて言ったら「こいつ映画ぜんぜんわかってない」になってしまう。直截表現が避けられたとしても「ファイトクラブわかってなくてびっくりしました」と言われてしまう。──わけである。

勝手にびっくりしていてください──と言いたいところだが、わたしはファイトクラブがわかりたかった。何年もずっと、わかりたかった。

とはいえ映画のニュアンスはわかる。ノートン演じる『僕』の気持ちもわかる。現代病に犯されたかれがじぶんの中にもう一人の別人格をつくりあげてしまう・・・理解できる。細かいメタファーまで把捉しているわけではないがファイトクラブに秘められたカオスは感じとったつもりだった。

だが、このメタファー(なにかを暗喩しているかもしれない表現)が“じぶんにはぜんぜんだった”。記号的すぎる。映画内で、現実と仮想の境界があいまいだからといって、困惑したことはない。が、ファイトクラブだけはイライラした。

なにより、暴力的だった。
じぶんはおよそどんな暴力・残酷描写にも耐性がある。が、ファイトクラブは、映画内で死んだのは一人にもかかわらず、どの映画よりも破壊的だった。(もちろん、この映画が苦手なのを差し置けば、これは最高の称讃にほかならない。)

それからブラッドピットはわざとらしい。それが魅力であり持ち味なので指摘されないがブラットピットはやはりわざとらしい。気持ちよさそうに演じているほどわざとらしく、わざとらしいほど好かれる。幸福な男だよね。